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子規・漱石 断想 №3 [文芸美術の森]

百七文字墓碑銘 結びは「月給四十圓」  松山子規会 栗田博行(八荒)
       (大江健三郎さん追悼の気持ちから、予定を変更しました)

おことわり
   もう半世紀近く昔のことになります。大江健三郎さんから「子規をアクチュアルに」というアドバイスを戴いたことがありました。それは子規論だけでなく、筆者の仕事人生に影響するような指針となった気が、今しています
  今回からは、日清戦争従軍という行為の子規の心底にあったものを追及する旨予告しましたが、三月三日の大江さんのご逝去にともない、上記の内容に変更いたします。
 昨年四月、筆者が松山子規会に入会に寄稿した文章で、後半に大江さんの子規観に触れています。大江さんは、坪内捻典さんや司馬遼太郎さんとともに、子規を日本人の精神史に重要なひとりとする方でしたが、筆者が企画したNHK松山時代の子規関連番組に度々出演してくださり、懇篤なご指導をたまわったのでした。
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百七文字墓碑銘 結びは「月給四十圓」 (松山子規会誌174号・寄稿)

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 もう四十年を超えて昔のことですが、NHK松山局放送部に勤務していた私は、「松山局開局四十周年」「子規記念博物館開館」記念と銘打って、えひめ教養講座「人間・正岡子規」というシリーズを企画・提案しました。企画は採択され、教育班という五人のチームが二年間制作を担当しました。
 昭和五十六年一月の第一回放送を、「月給四十円―墓碑銘に込めたもの」と題したのでしたが、その番組は神奈川県が主催した地方の時代映像祭というイベントで特別賞を受賞したのでした。「文芸・教養」ジャンルで講座と銘打ち、演出形式としても講師・坪内稔典さんと福本儀典アナウンサーの対談という地味この上もない三〇分のローカル番組が、一九八〇年代という時代の中にあってプライズを授かつた点が、ユニークだったと思います。そのような地味な作品の受賞は、子規という存在が、時代を超えて日本人に訴える力を持っていることのあらわれの一つだったと、今もつくづくと思っています。

ご承知のとうり、わずか百七文字からなる子規の有名な自筆墓碑銘は、なぜか「月給四十円」と結ばれています。本名と筆名を小気味のいいリズムでならべて自分の生涯を最簡潔に まとめ、その上で、胸張って宣言するように「日本新聞社員タリ」と結んだ子規は、「明治三十□年□月□日没ス 享年三十□」とまで書き加えた上で、なぜもう一言「月給四十円」と書き足したのか ? 3-2 のコピー.jpg

 子規は知らないことだったでしょうが、親友の夏目漱石は熊本の五高で百円の月給をとっていたころの、その額なのです。それをなぜわざわざ、自分の生涯をわずか百七文字にまとめた文章の結びの言葉にしたのだったか。対談は、その疑問を中心の主題として展開したのでした。

 月一回二年にわたったこのシリーズには、坪内さんと平行して司馬遼太郎さんも、「『愛媛の人に子規の人間性をアピールする』というような企画ならいくらでも協力する」と言ってくれ、シリーズの講師として坪内さんと交代で連続出演してくれることになりました。
 こちらは司馬さんのひとり語りでもあり、各回の主題の決定もお話の流れも司馬さん任せだったのですが、その第一回で司馬さんも「月給四十円」の結びに触れていました。その中で、ニッコリと笑顔を浮かべなながら「半紙に余白ができて…つい、武家の俸禄意識が出たのかな」と語った司馬さんの笑顔が今も思い出されます。
 それはそれで司馬さんならではの大人の解釈として今も私は好きなのですが、坪内さんと制作チームで組み立てたお話は、また別の角度に掘り下げたものになりました。 

 若い日の子規は、必ずしも「金銭」に関してきちんとした態度を持った人間ではなく、「人の金はおれの金といふやうな財産平均主義」(仰臥漫録)を標榜し、友人・夏目漱石に「恩借の金子、まさに当地にて使い果たし候」3-3 のコピー.jpgといった手紙を書いていたりもする、明治のおおらかな一書生であつたことを、一旦紹介します。 

 その上で、切実で深刻な体験をいくつも重ねた後、「ある雪の降る夜、(日本新聞)社より帰りがけ蝦暮口に一銭の残りさへなきことを思ふて泣きたい事もありき(略)、以後金に対して非常に恐ろしきような感じを起こし 今までにはさほどにあらざりしがこの後は一、二円の金といへども人に貸せといふに躊躇するに至りたり」と記すにいたる子規の変化を押さえていったのです。
 金銭観の成長を通して、青年から大人への子規の生活人としての成熟が進行したことを指摘したわけです。そして、東京根岸の「3DK」で、母・妹とのささやかなくらしの自立を「日本新聞社員」として成し遂げた安堵と小さな誇りが、「月給四十円」には込められている、と結論したのでした。
3-4.jpg 「俳聖にして文学史上の巨人」とだけ思い込んでいた「あの人」に、市井に生きる万人に共通のこんな面があつたのか…寄せられた反響にはそんな感想が、共通して溢れていました。授賞式で、審査員の一人・大島渚さんが「栗田さん、『父の墓』のところで泣いちやったヨ」と声をかけてくれました。子規には珍しいこの新体詩で、命の残りを想いはじめた子規は、家名を上げることもなく、父の墓を草生すままに置くことになりそうな自分を予感して、「父上許し給ひてよ。われは不幸の子なりき」と繰り返しています。福本アナウンサーの朗読の力と、夜の正宗寺の小さな父隼太のお墓の映像が相侯って、そのリフレインは、墓前で慟哭する子規の姿を感じさせるような強いシーンになっていました。
 坪内稔典さんは、早世した父の記憶を持たず、人聞きだけで「大酒家にして意地悪」「花火遊びの末に火事を出したひと」などと若書きしていた子規が、松山藩の下級武士として明治維新に前後する時代の中を死生した父隼太の、「つらさと鬱屈」に気づき、共感できるまでに成長していた証として、この新体詩を引用したのでした。

 そして司馬さんです。司馬さんの第一回は「子規と金銭」と題されていました。その中で司馬さんは、「月給二十五円をくれる」ことに迷いを見せて朝日新聞への転社を相談した弟子・寒川鼠骨に、子規が、「アンタ、百円の月給をもろうて百円の仕事をする人より、十円の月給をもろうて百円の仕事をする人の方がエライのぞな」と諭したというエピソードを、愉快極まりない表情で話されました。
 司馬さんも、坪内さんとアプローチは違っても、「日本新聞」の社員として病床から大きな仕事を成し遂げながら、「月給四十円」であることを「以て満足すべき」と記した子規の心意を、日本人の生きる姿勢の上で大切と見るという点で、そっくりだったのです。

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 投資家たちの投じる巨大なマネーが世上を揺るがせ続け、一方では仕事に就かない(就けない)大量の若者達があふれたりもする…番組を放送したころからしばらくしてオイルショックに見舞われもした日本でした。時代のそんな潮流の中で、司馬・坪内おふたりとも「仕事と金銭への日本人のあるべき態度」という根本的な次元で子規の3-7 のコピー.jpg生き方に焦点をあてて、お話の内容を組み立てられたのでした。

 司馬さんの最晩年(平成八年)のころ、ニッポンは戦後何回目かの土地バブルを迎えていました。「これはイカン」と悲鳴をあげるように発言する司馬さんを、週刊誌などでよく見かけました。司馬さんがなくなった日に新聞に発表された「日本の明日を作るために」という文章は、こう結ばれていました。 

      ・・・日本国の国土は、国民が拠って立ってきた地
      面なのである。その地面を投機の対象にして物狂
      いするなどは、経済であるよりも、倫理の課題で
      あるに相違ない。ただ、歯がみするほど口惜しい
      のは、 
3-8.jpg
 たとえば、マックス・ウェーバーが一九〇五年
 に書いた『プロテスタンティズムの倫理と資本
 主義の精神』のような本が、土地論として日本
 の土地投機時代に書かれていたとすれば、いか
 に兇悍のひとたちも、すこしは自省したにちが
 いなくすくなくともそれが終息したいま、過去
 を検断するよすがになったにちがいない。…略
  土地を無用にさわることがいかに悪であった
 かを思想書を持たぬままながら ―  国民の一人
 一人が感じねばならない。でなければ、日本国
 に明日はない。一九九六(平成八年二月十二日)

 明治三十年代、後輩の若者に「アンタ、百円の月給をもろうて百円の仕事をする人より、十円の月給をもろうて百円の仕事をする人の方がエライのぞな」と諭した人間子規を、「この上もなく愉快」といった表情を浮かべて語りかけた司馬さんは、その同じハートから、生涯の最後にこんな悲痛な叫び声を上げていたのでした。「でなければ、日本国に明日はない。」…とまで。
 司馬さんが、日本人への遺書のようにこんな言葉を残していたことを知った後、司馬さんが愛して止まなかった子規が、フランクリンの伝記を読んでいたことを知り、驚いたことがありました。
 年代から言って、司馬さんのいう「思想書」=「『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のような本」に子規が接したことはあり得ないのですが、マックス・ウェーバーがその説を打ち立てるひとつの源としたフ3-9.jpgランクリンの伝記は、すでに原文か翻訳されていたのか、子規の枕元に届いていたらしいのです。
 節制、沈黙、規律、決断、節約、勤勉、誠実などの徳目への努力を語ったフランクリンについて、最晩年の病床にあった子規はこんなことを公言していたのでした。

「…日本に之を読んだ人は多いであろうが、余の如く深く感じた人は恐らく外にあるまいと思ふ。」 
      (「病床六尺」・明治三十五年九月一日)

   実は、このえひめ教養講座「人間・正岡子規」準備の段階で、「子規を、アクチュアルに読み解きたいですね」と、大江健三郎さんにアドバイスを受けたことがありました。坪内さんと平行して出演するもう一人のシリーズ講師として、司馬さんの前に出演交渉をした時のことでした。前々年・昭和五十四年に、松山局発全国向けのETV番組で「私の子規」と題して子規の生涯を語っていただいたことがあり、「人間・正岡子規」シリーズはその経験から思いついた面がありました。そこで、臆せず厚かましく再度の出演の打診をしたのでした。大江さんは「愛媛ローカルでシリーズとして継続的に、子規のことを…」という企画意図に賛意を表明してくれた上で、「私は前回の出演で語り尽くしました」として再度の連続出演は断られ、その上で二つのことを咳かれました。

3-10 のコピー.jpg 一つは「子規を、アクチュアルに取り上げたいですね…」。もう一つは「もし、子規が今生きていたら、司馬さんのような人じゃないかな…そうだもう一人の出演者、司馬さんにお願いしてみたら…。」と。
 それは、われわれ(松山局制作課教育班の五人)が、司馬さんへの出演交渉を思い立てたきっかけとなりました。坪内さんについては、大江さんははじめて知る人のようでしたが、こちらが持参した坪内さんの子規論の本を物凄いスピードでめくりながら、「いいですね! いいですね!」と熱く共感される風でした。

 後日、大江さんは 前のETV番組「私の子規」出演の時用意された原稿を加筆訂正され、雑誌「世界」に発表されていたことを知りました。そのタイトルは、「子規はわれらの同時代人」となっていました。「子規を、アクチュアルに」とは、そういう事だったんだと納得したことでした。今もなお、坪内・司馬・大江、お三方の子規をめぐる発言の深いところでの一致に、感慨を禁じえません。

 もう一つご紹介しておきたいことがあります。松山市立子規記念博物館の開館は、昭和五十六年四月でした。それに合わせて、松山市の方々が開館記念講演として文芸家協会会長の山本健吉さんを招待されていました。ご紹介してきた「えひめ教養講座『人間・正岡子規』」は、それに先立つ一月からスタートしていましたが、それを知って、NHK松山の協賛事業としての講演を新たに思い付き、司馬遼太郎さんと大江健三郎さんにも「いかがでしょう…」とお願いの打診をして見ました。お二人ともこの依頼を快諾してくださいました。松山に子規記念博物館が3-11 のコピー.jpg開設される意義の大きさをそれだけ感じ取って下さったのだと思います。

 大江さんの講演は「若い人への子規」と題され、会場の若者に、子規が愛着した「せんつば」(八注・箱庭)を作ってみることを呼びかけられたのが印象的でした。日清戦争従軍で広島にいた時自殺してしまった従弟の藤野古白を追想する「古白遺稿」の中で、子規は「せんつば」について古白がしたことをひと言、次のように回想しています。

     ・・・ある時古白余の家に来りて、余が最愛のせんつば(函庭の顆)に
      植ゑありし梅の子苗を盡く引き抜きし時は怒りに堪へかねて彼を打
      ちぬ。母は余を叱りたまひぬ。

3-12.jpg 幼い日、「妹にかばってもらったくらいの弱虫でございました」と八重さんが回想する男の子だった「ノボさん」が、従弟へのこの時の乱暴は、八重さんに叱られるほどだったことが、記録されています。
 このわずか数行に着目され、開館記念の子規博の講演会場に松山の若い人も混じるであろうことを予想して、演目を「若い人への子規」とし、「せんつば」作りの試みを提案された大江健三郎さんでした。
 「せんつば」→ 子供の箱庭→ミクロコスモス→地球と宇宙。そんな風に連想が働いて、いま国連が人類全体の課題としてびかける「SDGs(持続可能な開発目標)」と、大江さんの「せんつば」をめぐる子規のお話が通じる点があると感じています。

  司馬さんの方は、「子規雑感」と題して、子規が成し遂げた俳句・短歌・文章の革新は、文芸の世界を超えて日本の近代にとって大事な「写生の精神」=リアリズム=の創始だったと論旨を広げられました。そして講演を、   「自分の寿命があと二三分あるなら、三分の仕事をしたほうがいい。子規はそういう人でした。」と述べ、「そういうことこそわれわれは継承したいですね。」と締めくくられたのでした。

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絶筆三句(子規記念博物館像)

   ところが司馬さんの「坂の上の雲」の子規の死の場面では、碧梧桐が「君が絶筆」で書きとめたあの糸瓜三句を書き継ぐ壮絶な姿が、実は完全に省略されています。その夜当番だった虚子の眼で子規絶命の姿は描かれ、その描写の中に「子規は辞世をつくらなかったが」という言葉があります。
 どういう事なのか疑問が湧くのですが、司馬さんは、この開館記念講演でその理由を明かしてくれたと思っています。締めくくりの言葉の直前にこんなことを言っておられたのです。
 「自分の寿命があと二三分あるなら、三分の仕事をしたほうがいい。子規はそういう人でした。
 司馬さんは子規の絶筆三句を書き継ぐ姿を、死への覚悟の表れというより、「あと二三分」の命を生ききる人間の営みと感じ取っておられたのだと思います。だから「子規に、絶筆はあっても、辞世はない」と……。講演は、「そういうことこそわれわれは継承したいですね。」と締めくくられたのでした。
 平成8年、司馬さんの訃報が飛び駆った中で、病院に向かう途中での「頑張ります」が、最後の言葉だったことを知りました。
 開館記念講演で来松された山本健吉・司馬遼太郎・大江健三郎お三方の鼎談も企画・放送しました。司会役を大江さんに引き受けてもらいましたが、そのタイトルを「いま子規をわれらに」としたのでした。
(当時NHK松山局制作課勤務 「人間・正岡子規」制作デスク)
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おわりに
 鼎談のタイトル「いま子規をわれらに」もまた、大江さんのアドバイス「子規を、アクチュアルに…」の反映であったことを、四十四年後の今、あらためて思いなおしています。
戦争と平和・国家と社会の在り方・仕事をすることと金銭への態度・人間と人間の付き合い方…。「子規のあの生き方と遺してくれた文学は、現代を生きていく上で、さらにアクチュアルの度合いを強めていますね…」と冥界の大江さんに呼びかけたい気分です。
「アクチュアル」=「今の時代と世界にあって具体的に参考になる」と愚生は理解しています。そして、大江さんご自身の生き方と遺してくれた文学もまた、アクチュアルであり続けるのだろうと、思いが重なります。子規が東京湾に建つ巨大な平和の像を想像した400年後、と同じような時間のスケールで…。
 子規記念博物館開館の2年前、昭和54年のNHKETV番組「私の子規」に出演してくださり、その仕事が全部終わった時、45分2回分を語り下ろすために用意された下原稿のコピーを制作チームにくださったのでした。後の活字化を予定した「子規はわれらの同時代人」とのタイトルになっていました。その稿に、「私の子規」の出演者として、チーム宛てのメッセージを書き添えてくれていました。

…われわれの共有したデモクラティクなトポスが、あなたたちの新しく大きい仕事に発展してゆくことを希望して…大江健三郎 一九七九年五月二十日

 以後、デモクラティクであることを肝に銘じて現役時代を過ごしたことを、冥界の大江さんに向け報告する次第です。先に冥界に行かれた同じく子規愛の人・司馬遼太郎さんと、お互い初対面とおっしゃる松山で、楽しそうに語り合われたおふたりの姿がよみがえります。
 合わせて、子規関連番組制作チームの担当者で既に冥界の人となられた山崎洋右氏・長澤昭道氏・戸崎賢二氏にも、小文の発表を報告申し上げます。      合掌。
 次回当欄は、7月1日の予定です。予告してきたた「日清戦争従軍という行為の、子規の心底にあったもの」 に戻って考えていきたいと思います。よろしくお付き合いください。

※最後に、大江健三郎さんの子規論考で、筆者が拝読した主なものの収載誌をご紹介しておきます。

   ①「子規はわれらの同時代人」
      大江健三郎同時代論集(岩波書店)10巻 青年へ 56P
   ②「ほんとうの教育者としての子規」
      大江健三郎同時代論集(岩波書店)3巻 想像力と情況 205P
   ⓷「若い子規が精神を活性化する」 子規全集(講談社版) 9巻 851P
   ④「子規の根源的主題系」 子規全集(講談社版) 11巻 599P



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