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浅草風土記 №1 [文芸美術の森]

雷門以北
  広小路
      
                作家・俳人  久保田万太郎

・・・浅草で、お前の、最も親密な、最も馴染のふかいところはどこだときかれれば、広小路の近所とこたえる外はない。なぜならそこはわたしの生れ在所だからである。明治二十二年、田原町で生れ、大正三年、二十六の十月までわたしはそこに住みつづけた。子供の時分みた景色ほど、山であれ、河であれ、街であれ、やさしくつねに誰のまえにでも蘇生(よみがえ)って来るものはない。— ことにそれが物ごころつくとからの、わたしのような場合にあってはなおのことである。
 田原町、北田原町、東仲町、北東仲町、馬道一丁目。― 両側のその、水々しい、それぞれの店舗のまえに植わった柳は銀杏の若木に変った。人道と車道境界の細い溝は埋められた。(秋になるとその溝に黄ばんだ柳の葉のわびしく散りしいたものである)どこをみても、もう、紺の香の醒めた暖簾(のれん)のかげはささない。書林浅倉屋の窓の下の大きな釜の天水桶もなくなれば、鼈甲(べっこう)小間物店松屋の軒さきの、櫛の画を描いた箱看板の目じるしもなくなった。源水横町(げんすいよこちょう)の提燈やのまえに焼鳥の露店も見出せなければ、大風呂横町の、宿屋の角の空にそそる火の見梯子も見出せなくなった。— 勿論、そこに、三十年はさておき、十年まえ、五年まえの面影をさえさし示す何ものもわたしは持たなくなった。「渋屋」は「ペイント塗工」に、「一ぜんめし」は「和洋食堂」に、「御膳しるこ」は「アイスクリーム、曹達(ソーダ)水」に、おのおのその看板を塗りかえたいま。—そういっても、カフェエ、バア、喫茶店の油断なく立並んだことよ。— 偶々むかし、ひょうきんな洋傘屋あって、赤い大きな目じるしのこうもり傘を屋上高くかかげたことが、うち晴れた空の下に、遠く雷門からこれを望見することが出来たといっても、誰も、もう、それを信じないであろう。しかくいまの広小路は「色彩」に埋もれている。強い濃い「光」と「影」との交錯に溺れている。—ということは、古く存在した料理店「松田」のあとにカフェー,アメリカ(いま改めてオリエント)の出来たばかりの謂いではない。そうしてそこの給仕女たちの、赤、青、紫の幾組かに分れている謂いでも勿論ない。前記書林浅倉屋の屋根のうえに「日本児童文庫」と「小学生全集」の彪大な広告を見出したとき、これも古い酒店さがみやの飾り窓に映画女優の写真の引伸しの貼られてあるのを見出したとき、そうして本願寺の、震災後まだかたちだけしかない裏門の「聖典講座」「日曜講演」の掲示に立交る「子供洋服講習会」の立札を見出したとき、わたしの感懐に背いていよいよ「時代」の潮さきに乗ちうとする古いその町々をはりき。わたしは感じた。—浅草屋は、このごろその店舗の一部をさいて新刊書の小売をはじめたのである。さがみやもまたいままでの店舗を二つに仕切って「めりんすと銘仙」の見世を一方にはじめたのである。が、忘れ難い。—でも、矢っ張、わたしにはその町々がなつかしい…‥
 何故だろう?
 そこには、仕出屋の吉見屋あって、いまだに、「本願寺御用」の看板をかけている。薬種屋の赫然堂(かくぜんどう)あって、いまなおあたまの禿げた主人が、家伝の薬をねっている。餅屋の太田屋あって、むかしながらのふとった内儀(かみ)さんがいつもたすきかけのがせいな恰好をみせている。— 宿屋のふじや、やなぎや、鳥屋の鳥長、すしやの宝来、うなぎやの川松、瓦煎餅の亀井堂、軽焼のむさしや。— それらの店々はわたしが小学校へ通っていた時分と同じとりなしでいまなおわたしをつつましく迎えてくれるのである。—それらの店々のまえを過ぎるとき、いまもってわたしは、かすりの筒っぽに紫めりんすの兵児帯、おこそ頭巾をかぶった祖母に手を引かれてあるいていたそのころのわたしの姿をさびしく思い起すのである。— それは北風の身を切るような夕方で、暗くなりそめた中に、どこにももぅ燈火がちらちらしているのである。— 眼を上げると、そこに、本願寺の破風が暮残ったあかるい空を遠く涙ぐましくくぎっているのである。・・・

     二

 ……広小路は、両側に、合せて六つの横町と二つの大きな露地とを持っている。本願寺のほうからかぞえて、右のほうに、源水横町、これという名をもたない横町、大風呂横町、松田の横町、左のほうに、でんぼん横町、ちんやの横町、—二つの大きな露地とは「でんぼん横町」の手前のさがみやの露地と、浅倉屋の露地とをさすのである。— 即ち「さがみやの露地」は、「源水横町」に、「浅倉屋の露地」は、「名をもたない横町」に、広い往還をへだててそれぞれ向い合っているのである。
 が、「源水横町」だの「名のない横町」だの「大風呂横町」だの「松田の横町」だの「でんぼん横町」だの、それらはすべてわたしの子供の時分には……すくなくもまだわたしの田原町にいた時分まではだれもそう呼んでいたのである。—嘗てそこに松井源水が住んでいたというのをもって源水横町、その横町が「大風呂」という浴場をもっていたのをもって大風呂横町、その右かどに料理店の 「松田」をもっていたのをもって松田の横町(それはまた、その左かどに牛肉屋の「いろは」をもっていた理由でいろはの横町とも呼ばれた)—で、「でんぼん横町」とは「伝法院横町」の謂、「ちんやの横町」とは文字通りちんやの横町の謂である。そういえば誰でも知っている大衆向の牛肉屋「ちんや」の横町である。 — 由来はいたって簡単である。
 このうちいま残っているのは「ちんやの横町」だけである。「ちんやの横町」という称呼だけである。浅倉屋の露地だのたぬきや横町だのに、行きつけのカフェエをもつほどのいまのそのあたりの人たちに 「源水横町」といういい方は空しい響きをしかすでに与えなくなった。それと同時に「これという名をもたない横町」は「川崎銀行の横町」という堂々としたいいかたをいつかもつようになった。わたしのその町を去ったあと、それまでの際物(きわもの)問屋、漬物屋、砂糖屋その外一二けんを買潰して出来たのがその銀行である。いまでこそ昼夜銀行が出来、麹町銀行がまた近く出来ようとしているものの、いまをさる十二三年まえにあっては、そうした建物を広小路のうちのどこにももとめることが出来なかったのである。銀行といえば、手近に、並木通りの浅草銀行(後に豊国銀行)の古く存在するばかりだったのである。— 「大風呂」のすでに失われた今日 「大風呂横町」の名のいつかは昔がたりになるであろうとともに、「松田の横町」の「松喜の横町」と呼びかえられるであろう日のそう遠くないことを、カラリとした感じの、いち早く区画整理のすんだ、いままでより道幅の遥に広くなった往来のうえに決定的にそうわたしは感じた。— いままでの「松田の横町」は外の三つの横町のどこよりも暗く陰鬱だった。— 「松喜」とは「いろは」のあとに出来たこれも大きな牛肉屋である。— そこに、ちんやと、すべてに於て両々相対している。……
 その四つのそれぞれの横町について、これ以上巨密なふでを費すことをわたしはしないだろう。なぜならそれはいたずらにただわたしの感懐を満足させるにすぎまいから。ただ、わたしに、それらのはうぽうの横町で聞いた「はさみ、庖丁、かみそりとぎ」だの、「朝顔の苗、夕顔の苗」だの、定斎屋の銀の音だの、飴屋のチャルメラだの、かんかちだんごの杵の音だの、そうしたいろいろの物音が、幾年月を経たいまのわたしの耳の底にはっきりなお響いている—それらの横町を思うとき、わたしの心はしぐれのような暗い雨にいつもぬれるのである……

『浅草風土記』 中公文庫



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