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山猫軒ものがたり №16 [雑木林の四季]

私はヒヨコのお嫁です 2

           南 千代


 朝の味噌汁を飲んでいると、軽トラックのエンジン音が聞こえてきた。同時に、庭の向こうで猪豚がブヒーツ、ブヒーツと騒ぎ始めた。豚は、朝夕の二度、エサを運んでくる大家の高橋さんの車の音がすると、こうして騒ぎ立てる。エサがうれしいのだ。
 同じ車種の軽トラックでも、他の車の音では喜ばない。ちゃんと、高橋さんの車の音だけに反応する。なかなか頭がいい。
 猪豚は、猪と豚とのかけ合わせだが、豚より体がずっと大きく、皮膚は堅い褐色の毛でおおわれている。雄は立派な牙まであって、見かけはまるで猪だ。猪豚は四頭いた。
 「おはようございます」
 外に出た。栗の若葉の菓影から、さわやかな五月の光がシャワーのように注いでいる。
 「ああ、今日はよく晴れてらあな」
 高橋さんは、運んできた筍やキャベツのくず葉を小屋の中に放り込み、餌箱へ飼料のフスマを入れ足している。
 「豚って、稲も食べるんですか?」
 「好物だ。ほれ、よく食うだろ。ちいっと伸びすぎたやつだけんど」
 豚はまず、その日によって違うくず野菜などを食べた後、餌箱のフスマを食べる。その様子を小屋の鉄柵にもたれてタバコを一服しながら眺め、吸い終わると帰っていくのが、新しい大家の朝の日課だった。
 高橋さんは、小野路の街道沿いに住んでおり、最近ではこの付近でも珍しい専業農家である。豚小屋の周辺や、桃畑から小野路牧場にかけて手広く耕していた。
 「どうだい、住み心地は」
 「おかげさまで、ありがとうございます」
 「中をずいぶん立派にしちゃってよ。今度、峰岸さんの奥さんも見に行くべ、ってよ。まったく、元とは見違えるようだな」
 大家が言うように、豚小屋を私たちは快適な住まいにすることができた。作業を急いだため、半田さんの紹介で八王子から大工にも来てもらい、夫も一緒に十日ほどで造った。
 大工は、東北出身のとても人の良いおじさんで、普通の職人ならいやがるに違いないこんな仕事を快く引き受け、毎日弁当を抱えて雪の中をバイクで通ってきた。家の仕上げには、たとえ借り住まいでも神棚はきちんとしなさや、と方角を考えて神棚まで造ってくれた。
 私たちは、とりあえずこの豚小屋に住みながら腰を据えて新天地を捜すことに決めていた。よい環境とはいえ、サンクチュアリみたいなこの一画では、いつまた、開発の波が押し寄せないとも限らない。
 より暮らしの広がる自然のステージを求めて、私たちは再び真剣に家捜しを始めた。その一方で、養鶏や茸栽培も少しずつスタートした。
 夫は、五十羽の鶏のヒナを岐阜の酵卵場に予約注文した。鶏の種類は、赤い卵を産むゴトウ130という品種。ある程度育ったヒナを仕入れて成鶏にする方法もあるが、初めての経験なので一から携わってみたいと、生まれてすぐの初生雛を注文した。
 ヒナは卵黄の一部を胃の中に蓄えて生まれてくるので、孵化して四十八時間は、エサも水もなしで生きている。その間に、鉄道の貨物便で輸送されてくる。
 七月十日、岐阜からヒヨコを駅留めで送るとの知らせに、二人で小田急線の登戸の駅まで迎えに行った。五十羽で、小さな薄いダンボールひと箱。これが注文の最小単位なのだ。中からは、ヒヨヒヨピヨピヨと、けなげを声が聞こえてくる。ヒヨコたちが入ってきたダンポールベッドの蓋には、こんな、お願いが書かれていた。
 愛情豊かな鉄道の皆様!私はヒヨコのお嫁です。
 黄金の玉子を産みまして、家を富ませ、国興す。
 小さな体に大きな他命/私はお味に行きまする.
 暑さ、寒さが怖いです。早くお届け下さいませ!
 お願いでございます。
 少々時代がかってはいるが、いいコピーだ。夫が運転している横で、私は揺れが少ないようダンボール箱をヒザの上に両手で抱えた。私の手の中に五十の命がある。大切に育てよう。
 夫がやろうとしている養鶏方法は、地面の上で鶏を放し飼いにするやり方だ。新鮮な空気と水、たっぷりの太陽のもとで、薬剤や添加物ゼロの自家配合餌と緑餌を食べさせ、健康な卵を産ませる。つまり、ひと昔以前の農家の庭先でなら、普通に見ることができたはずの、鶏の飼い方である。
 この自然卵養鶏法では、副業として生計の足しにするなら二百か三百羽。多くても、人ひとりが持てる労力のことを考えると千羽止まりにしなければならず、あえて「労力をかけて少なく生産する」ことをめざす。今の時代には珍しい「進歩、発展向上、繁栄へのコースを逆にたどる」養鶏法だ。
 夫は、ヒナの育て方や餌の配合、鶏や卯のことに熱中し、寝ても覚めても中島氏の養鶏本を開いている。
 何だか顔つきが鶏に似てきて、ヘアスタイルまで鶏のとさかのように見えた。
 もう少し、このうねの芋ほりまで、もう少し、そうしているうちに、陽は西の山に沈んでしまったようだ。枯れ薮を渡る風の声に、思わずあたりを見回すと、立木の影から、蒼い闇がこちらをうかがっている。
 掘りあげた里芋をせわしなくカゴに集めて背負い、たそがれ時の家路をたどる。夏の夕刻には白いレースの花を広げていた烏ウリは赤紅色に熟し、空洞になった実が心もとなく揺れている。動物たちが待っているだろうな。
 家に着く。犬、猫、ウサギ、豚たちにひととおり声をかけながら様子を見る。おまけが入っていたため五十五羽だったヒナたちも、育雛箱から初雛バタリーへ、大雛バタリーへと移動し、もうじき、夫がようやく完成させた五坪の成鶏舎へ入る。
 収穫してきた野菜の整理をしながら、薪ストーブに火を入れ、夕食の支度にとりかかるひととき。快い疲労感と共に温もりの充足感が満ちてくる。
 コピーの仕事には相変わらず恵まれ、こんな生活を始めたというので、外資系の自然化粧品の広告を受け持ったり、大手農機具メーカーやリゾート企業の仕事を依頼されたりもした。
 自然の中での暮らしが私の世界を広げたのか、以前と違い、仕事にもラクに息をしながら取り組めるようになっていた。私を捉えていた呪縛が、足元の地面や、風や、多くの生き物の営みの中に、解け去ってしまったのだろう。

『山猫軒ものがたり』 春秋社



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