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多摩のむかし道と伝説の旅 №107 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

          多摩のむかし道と伝説の旅(№26)
   -御岳渓谷、鳩ノ巣渓谷、数馬峡を辿る奥多摩への道-1

             原田環爾

 多摩川の上流部は青梅に入ると深い山々が両岸に迫り、徐々に深い谷筋を流れる渓流へと変貌する。やがて御岳渓谷、続いて鳩ノ巣渓谷を形成し、更に上流部に遡れば惣岳渓谷や日原渓谷などが続く。これらを総称して奥多摩渓谷と呼ぶ。古くは青梅、奥多摩を支配した領主三田氏の名に因んで三田谷と呼ばれた。渓谷には至る所巨岩や奇岩があふれ、渓流は逆巻き、時に深い淵が神秘的な様相を呈している。春は新緑秋は紅葉が渓流に映え、訪れる者に素晴らしい渓谷美を提供してくれる。しかし渓谷の自然は荒々しく容易に人を寄せつけず、一般的には谷の上から眺めるしかないのが普通だ。ところが御岳渓谷や鳩ノ巣渓谷は渓流のすぐ傍らに遊歩道が整備されていて、まさに谷の底から渓谷美を楽しむことが出来る。一方奥多摩には単に渓谷美だけでなく、古代から中世にかけての歴史と伝説を多く伝えるところでもある。10世紀初頭に活躍した坂東の英雄平将門、中世の三田谷を支配した三田一族の伝承などである。また幕末から明治にかけて盛んであった多摩川の筏流しの筏師達の故郷でもある。今回は青梅の軍畑から奥多摩へ可能な限り渓谷の道を辿り、深山幽谷の渓谷美を楽しみたいと思う。
 ここではJR青梅線軍畑駅から青梅街道を経て御岳渓谷遊歩道に入る。沢井、御岳と左岸の道を辿り、川井で奥多摩大橋を渡って対岸の吉野街道に回り古里に出る。古里からは旧青梅街道に入って寸庭橋まで進み、再び青梅街道を辿って棚沢を経て鳩ノ巣へ至る。雲仙橋の袂から鳩ノ巣渓谷遊歩道に入り、鳩ノ巣小橋で右岸に回り、白丸湖畔の道を経て数馬峡橋で今回の終着点白丸駅へ向かうことにする。

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107-2.jpg 鄙びた無人の軍畑駅を降りると新鮮な山の風景が眼前に広がる。駅の南側は急勾配の下り坂で見晴らしがよく、遥か下に多摩川上流部がゆったりと蛇行し、正面対岸には標高646mの三室山の山塊がどっしりとそそり立っている。一方左手遙か下方には戦国の遺構鎧塚が見える。道端に広がる畑風景を見ながら坂道を下り降りると多摩川沿いの青梅街道に出る。そこには軍畑大橋といういかにも頑丈そうなエンジ色のアーチ橋が架かっている。橋の上に出て渓谷の風景を眺めてみてもよし、あるいは橋の袂の階段を下りて河原から風景をみるのもよい。

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107-4.jpg ところで軍畑とはいかにも奇妙な名前だが、ここは鎌倉街道山ノ道の多摩川渡河点という要衝で、ここで戦があったことによる。近くの鎌倉道沿いには戦死した武者の亡骸や武具を埋めたという鎧塚がある。戦国時代、東青梅の北寄りにある勝沼城を本拠に自らを平将門の後裔と称し奥多摩渓谷を支配した三田氏は、関東の覇権を狙う小田原北条氏の侵攻を阻止するため、軍畑の隣の二俣尾の山上に辛垣城を築いた。永禄6年(1563)三田弾正忠綱秀の時、滝山城主北条氏照は大軍を率いてこの軍畑の多摩川南岸に対峙した。今の軍畑大橋下付近と思われる。渓谷を渡河してきた北条軍を三田軍は迎え撃ち、激しい攻防戦を展開した。三田氏はよく奮戦したが武運つたなく敗れ、辛垣城は炎上した。綱秀は岩槻城主太田氏をた107-5.jpgよって岩槻に落ち延びたが、ついにはそこで自害して果て、三田氏は滅亡した。落城にあたって綱秀はこんな歌を残したと伝えられる。
「からかいの 南の山の 玉手箱
 開けてくやしき わが身なりけり」
 歌の背景はよくわからないが、あるいは辛垣山より遥か南方にある五日市の戸倉城主大石定久の援軍を期待したのに、得られなかった口惜しさを詠んだものかもしれない。なお軍畑に橋がなかった頃、ここに軍畑の渡しがあった。川の水が多い4月から11月にかけては渡し舟が使われ、水の少ない季節は丸太で組んだ仮橋が架けられたという。(この項つづく)


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