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海の見る夢 №51 [雑木林の四季]

   海の見る夢
      ―バッハBWV721―
               澁澤京子
  
 ~力は弱さの中でこそ発揮されるのだ~「コリント2 12-9~」

『みえない汚染 飯館村の動物たち』というドキュメンタリー映画を観た。事故から三年。放射能汚染地域に指定された村に、いまだに放置された飼い犬150匹、猫400匹以上がいる。犬は鎖につながれたままドロドロに汚れ、飼い主の許可がいるので鎖をはずすわけにもいかない。(鎖が絡まったまま死んでいた犬も)時折、犬の様子を見に来る飼い主はほんの少数で、ほとんどの犬や猫は放置されたまま。(被災した飼い主の状況はそれどころではないかもしれない)とても直視できないような悲惨な状況に置かれた犬ばかり。鎖につながれているので逃げることもできずに、野生動物に襲われて死んだ犬も少なくないらしい。(飼い主が存在するので鎖をはずすわけにもいかない)平山さんやボランティアたちが車を運転して犬に餌をあげたり水を変えたり、雨を防げるように小屋を整備したり、一匹ずつ散歩したり、そうした世話をずっと行っている。あちこちに点在する犬の面倒を見るため一日中車で移動するのも大変なので、犬と猫のシェルターを一か所に造ろうと役所に掛け合うが(もちろん自腹で)、行政からは支援金はもちろん、シェルターを作る許可すらおろしてもらえない・・平山さんやボランティアは、犬の飼い主一軒ずつに電話して了解をとり、引き取った動物の新たな里親を探す傍ら、半ば強硬的にシェルターを設置するのだが・・シェルターを快く思わない人たちもいる中、それでもめげずに、犬や猫のシェルターである「福光の家」は今も継続している。

「純粋のみが悲惨を見つめうる」はシモーヌ・ヴェイユの言葉だけど、たいていの人は悲惨なものは見たくないし、できれば知りたくもない、私自身がまさにそうなので、正直、見るのがとてもつらい映画だった。平山さんたちはその悲惨を直視し、さらに行動を起こしたのだ・・彼らの動物を救うための地道な活動と勇気には、ひたすら頭が下がるばかり。動物の世話というのは、糞尿の始末から小屋を清潔に保つとか、犬の場合は散歩に連れて行ったり、汚れたら体を洗ったり、病院に連れて行ったりと、基本は汚れ仕事だし、労力を要する。もちろん、そんなものは労力とも言えないほど、動物はたくさんのものを人に与えてくれるが、犬150匹に猫400匹とは・・ただの「かわいい」「かわいそう」ではとてもできない行為だと思う。

こうした地味な活動はもちろん平山さんだけじゃない、放射能汚染をものともせずに、立ち入り禁止地域に入って、犬や猫を助けた若い学生のグループ(you tubeで観ました)、あるいは残された動物の世話のために、避難せずに福島の立ち入り禁止地域に住み続け、一人で何十匹もの動物の世話をしていた男性(以前、ツイッターで知り合った)・・置き去りにされた動物たちのことを考え、いてもたってもいられなかった心優しい人達。彼らは何もしない行政の代わりに引き受けたのである。もちろん、動物のことだけじゃない。福島復興のために無償で尽力している縁の下の力持ちはたくさんいる。

平山さんが何度かけあっても「前例がないから」とけんもほろろの態度で断る行政。「命の大切さ」という言葉は、行政から出てきた標語ではなかったか。トルコ地震で、がれきに埋まった犬を何時間もかけて救出する映像を見たが、どこの国にだって「動物を大切にする人間」は存在する。「自然に優しい日本人」なんて特権意識を私たちは持てるだろうか。「自然と一つになる」は、鎖につながれたまま雨ざらしで放置された犬や、餌をもらえず餓死した猫と一つになるということでもあるだろう・・

「福光の家」で検索すると案の定、貶めるコメントが少なくない。こうした活動に対しあたかも「偽善」であるかのようにケチをつけたがる人は多い。自分は何もせずに批判だけするなんて本当にくだらない。

第一、今の日本には、偽善どころか、嘘をついても開き直って堂々とすれば、いつかそれは真実となる、とばかりに、平気で開き直る人々のほうが政治家を筆頭にたくさん存在するじゃないか。今、高市氏で問題の放送法。「政治的圧力」と「脅し」、そして彼女の「開き直り」。それから、逮捕されても誰一人悪びれる様子もみせない強盗集団の開き直りがある・・なんでも「偽善」と暴いた挙句に、残った本音は結局、高市氏の「開き直り」に見られる「~何が悪い」であり、そうした開き直りは強盗集団のように人を平気で脅したり、殺して踏みにじる態度と本質は同じなのだ・・ニヒリズムと利己主義が蔓延し、これといった倫理基準がなければ、「お金を盗って何が悪い」の「開き直り」になるのだろう。いままでヤ○ザの手法だった「脅し」「開き直り」「突っ張り」が今や政治家をはじめとして、当たり前のように広がっているのだろうか?

「自己責任」と「他人に迷惑かけるな」。これがあたかも最も重要な道徳であるかのように声高に言われるようになったのは、私の記憶だとイラク戦争から。「自己責任」は「迷惑かけるな」と同様に、他人を非難するために使われたことが多かった気がする。本当に責任感の強い人、スケールの大きな人はその責任範囲が自分や家族を超えて広がるのであって、そうした責任感の強い人間は「自己責任」なんて言葉はそもそも使わないし、まして他人を非難などしないだろう。ネットやコンビニの普及により、お金さえあれば誰でも一人で生きていける社会となって、利益だけを優先した日本は殺伐とした国となり、さらにコロナで人とのリアルな関係も薄れた。

それは、よく晴れた日曜日の夕方のことだった。街は買い物する人、これから食事に行こうとする家族づれでとても混雑していた。買い物袋を提げて歩いていた私の前方には、ひときわ輝いて楽しそうな三人家族がいて、見ると小学校低学年(当時)の息子の同級生のT君一家だった。T君は脳腫瘍になって長いこと入院していたが、やっと退院できたのだ・・家族三人、あまりにも楽しそうなので声をかけることは遠慮したが、その時、「本当の幸福とはこういうものなのだ」と思ったのである、三人の姿があまりに明るく光輝いていたからだ・・また再入院するという話はT君のお母さんから聞いていたが、退院したひと時の、普通の人にとってごく当たり前の日曜日の午後、それが三人にとっては、どんなにかけがえのない時間だっただろうか・・

人は絶えず自分の外側に向かって何かを追い求める。しかし、それに対し、深刻な悩みや心配事からの解放は、それがたとえつかの間のものであっても、日常や本来を取り戻すことであり、それによって初めて凡庸な日常の、生の素晴らしさに気が付くことがある・・そして、おそらく「幸福」というのは、(自由と呼び変えてもいいが)後者のことじゃないかと思う。そしてそうした幸福は、場合によってはそれをきっかけにして人の人生観を変えるほどの体験となって力を持つだろう。そうした幸福(自由)は、自己満足の幸福(自足)とはまったく違うものなのである。自足は自己完結した閉鎖的なものであるが、自由は欠落からの回復を契機に起こった自我からの解放であり、プラトンの「想起」のように(あらかじめ存在したもの)の発見であり、それを取り戻すことなのである。

パウロは落馬し、失明することによってはじめて回心した・・苦しみや死とギリギリの経験が宗教的な神秘体験につながりやすいのは、人はいったんどん底の状況になることによって(その時は夢中で気が付かないが)、「個」が粉砕され、はじめて見えるものがあるからだ・・アウグスティヌスが言うように、まさに「はじめに神が我々を愛した」のであって、それは、すでに私たちは救われていた、ということだと思う。そして、それに気づいて味わう解放感は、やはり「自由」という言葉がぴったりなのだ・・そして、苦しみの経験は、人を他人の苦しみに敏感にさせる回路を作る。「金持ちとラザロ」のラザロの存在を無視できないのは、ラザロの苦しみに共感できる(開かれた)人だけだろう・・

そして、ラザロの苦しみを分かる人、つまり心のオープンな人が、「今・ここ」に生きている本当の幸せのわかる人じゃないだろうか。

完全な人など、誰もいない。人はそれゆえに平等であり、また不完全で弱いからこそ、人は助け合わないと生きていけない。弱さというのは常に他者や世界に向かって開かれているものなのである。

※バッハBWV721は、富田一樹さんの演奏が素晴らしいです(you tubeで聴くことができます)

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