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郷愁の詩人与謝蕪村 №3 [ことだま五七五]

蕪村の俳句について 2

         詩人  萩原朔太郎

 蕪村は不遇の詩人であった。彼はその生存した時代において、ほとんど全く認められず、空しく窮乏の中に死んでしまった。今日僕らは、既に忘れられて名も知れなくなってしまった当時の卑俗俳諧はいかいの宗匠たちが、俳人番附ばんづけの第一席に名を大書し、天下に高名を謳うたわれている時、わずかその末席に細字で書かれ、漸く二流以下の俳人として、影薄く存在していた蕪村について考える時、人間の史的評価や名声やが、如何いかに頼りなく当あてにならないかを、真に痛切に感ずるのである。すべての天才は不遇でない。ただ純粋の詩人だけは、その天才に正比例して、常に必ず不遇である。殊に就中なかんずく蕪村の如く、文化が彼の芸術と逆流しているところの、一ひとつの「悪あしき時代」に生れた者は、特に救いがたく不遇である。
 蕪村の価値が、初めて正しく評価され、その俳句が再批判されたのは、彼の死後百数十年を経た後世、最近明治になってからのことであった。明治以後、彼の最初の発見者たる正岡子規、及びその門下生たる根岸派の俳人に継ぎ、殆ほとんどすべての文壇者らが、こぞって皆蕪村の研究に関心した。蕪村研究の盛んなことは、芭蕉研究と共に、今日において一種の流行観をさえ呈している。そして世の定評は、芭蕉と共に蕪村を二大俳聖と称するのである。
 しかしながら多くの人は、蕪村について真の研究を忘れている。人々の蕪村について、批判し定評するところのものは、かつて子規一派の俳人らが、その独自の文学観から鑑賞批判したところを、無批判に伝授している以外、さらに一歩も出ていないのである。そしてこれが、今日蕪村について言われる一般の「定評」なのである。試みにその「定評」の内容をあげて見よう。蕪村の俳句の特色として、人々の一様に言うところは、およそ次のような条々である。

一、写生主義的、印象主義的であること。
一、芭蕉の本然的なのに対し、技巧主義的であること。
一、芭蕉は人生派の詩人であり、蕪村は叙景派の詩人である。
一、芭蕉は主観的の俳人であり、蕪村は客観的の俳人である。

 「印象的」「技巧的」「主知的」「絵画的」ということは、すべて客観主義的芸術の特色である。それ故に以上の定評を概括すれば、要するに蕪村の特色は「客観的」だということになる。そしてこれが、芭蕉の「主観的」に対比して考えられているのである。
 ところで芸術における「主観的」「客観的」もしくは「主情主義的」「主知主義的」ということは、本来何を意味するものだろうか。これについて自分は、旧著『詩の原理』に詳しい解説を述べておいた。約言すれば、すべての客観主義的芸術とは、智慧を止揚しようしたところの主観表現に外ほかならない。およそ如何なる世界においても、主観のない芸術というものは存在しない。ただロマンチシズムとリアリズムとは、主観の発想に関するところの、表現の様式がちがうのである。それ故に本来言えば、単なる「叙景詩」とか「叙景派の詩」なんていうものは実在しない。もしあるとすればナンセンスであり、似而非の駄文学だぶんがくにすぎないのだ。いわんや俳句のような抒情詩――俳句は抒情詩の一種であり、しかもその純粋の形式である。――において、主観は常にポエジイの本質となっているのである。俳句のような文学において、主観が稀薄であるとすれば、そのポエジイは無価値であり、その作家は「精神に詩を持たない」似而非詩人である。
 ところで一般に言われる如く、蕪村が芭蕉に比して客観的の詩人であり、客観主義的態度の作家であることは疑いない。したがってまた「技巧的」「主知的」「印象的」「絵画的」等、すべて彼の特色について指摘されてるところも、定評として正しく、決して誤っていないのである。しかしながら多くの人は、これらの客観的特色の背後における、詩人その人の主観を見ていないのである。そしてこの「主観」こそ、正まさしく蕪村のポエジイであり、詩人が訴えようとするところの、唯一の抒情詩じょじょうしの本体なのだ。人々は芭蕉について、一茶について、こうした抒情詩の本体を知り、その叙景的な俳句を通して、芭蕉や一茶の悩みを感じ、彼らの訴えようとしている人生から、主観の意志する「詩」を掴つかんでいる。しかも何と不思議なことに、人々はなお蕪村について無智であり、単に客観的の詩人と評する以外、少しも蕪村その人の「詩」を知らないのである。そしてしかも、蕪村を讃して芭蕉と比肩し、無批判に俳聖と称している。「詩」をその本質に持たない俳聖。そして単に、技巧や修辞に巧みであり、絵画的の描写を能事としている俳聖。そんな似而非詩人の俳聖がどこにいるか。

 こうした見地から立言すれば、蕪村の世俗に誤られていること、今日の如く甚だしきはないと言える。かつて芥川竜之介君と俳句を論じた時、芥川君は芭蕉をあげて蕪村を貶けなした。その蕪村を好まぬ理由は、蕪村が技巧的の作家であり、単なる印象派の作家であって、芭蕉に見るような人生観や、主観の強いポエジイがないからだと言うことだった。友人室生犀星君も、かつて同じような意味のことを、蕪村に関して僕に語った。そして今日俳壇に住む多くの人は、好悪の意味を別にして、等しく皆同様の観察をし、上述の「定評」以外に、蕪村を理解していないのである。
 蕪村を誤った罪は、思うに彼の最初の発見者である子規、及びその門下生なる根岸派一派の俳人にある。子規一派の俳人たちは、詩からすべての主観とヴィジョンを排斥し、自然をその「あるがままの印象」で、単に平面的にスケッチすることを能事とする、いわゆる「写生主義」を唱えたのである。(この写生主義が、後年日本特殊の自然主義文学の先駆をした。今日でもなお、アララギ派の歌人がこの美学を伝承しているのは、人の知る通りである。)こうした文学論が如何に浅薄皮相であり、特に詩に関して邪説であるかは、ここで論ずべき限りでないが、とにかくにも子規一派は、この文学的イデオロギーによって蕪村を批判し、かつそれによって鑑賞したため、自然蕪村の本質が、彼らのいわゆる写生主義の規範的俳人と目されたのである。
 今や蕪村の俳句は、改めてまた鑑賞され、新しくまた再批判されねばならない。僕の断じて立言し得ることは、蕪村が単なる写生主義者や、単なる技巧的スケッチ画家でないということである。反対に蕪村こそは、一つの強い主観を有し、イデアの痛切な思慕を歌ったところの、真の抒情詩の抒情詩人、真の俳句の俳人であったのである。ではそもそも、蕪村におけるこの「主観」の実体は何だろうか。換言すれば、詩人蕪村の魂が咏嘆し、憧憬し、永久に思慕したイデアの内容、即ち彼のポエジイの実体は何だろうか。一言にして言えば、それは時間の遠い彼岸に実在している、彼の魂の故郷に対する「郷愁」であり、昔々しきりに思う、子守唄の哀切な思慕であった。実にこの一つのポエジイこそ、彼の俳句のあらゆる表現を一貫して、読者の心に響いて来る音楽であり、詩的情感の本質を成す実体なのだ。以下その俳句について、個々の評釈を述べると共に、この事実を詳しく説いて見たいと思う。

『郷愁の詩人 萩原朔太郎』 青空文庫



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