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海の見る夢 №50 [雑木林の四季]

           海の見る夢
           ―春宵一刻―
               澁澤京子

  春宵一刻値千金
  花有清香月有陰
  歌管楼台声細々
  鞦韆院楽夜沈沈  ~蘇軾
                ※鞦韆(しゅうせん)・・ブランコ

 昔、子供と一緒に実家に居候していた時、毎晩、犬の散歩で近所の公園に行った。傾斜地がそのまま公園になっていて、夜になると、犬を連れた人が集まってきて、丘の上で犬を放して、自主的なドッグランになっていたのだ(今は禁止されているらしい)。ある春の晩だった、夜遅かったせいか他に誰もいない公園に、どこからともなく胡弓の音が聴こえてきたのである。誰かが練習しているのだろうか?春の朧月にどこからともなく流れる胡弓(二胡)の音色・・思わず陶然としたのであった。音楽というのは、カセットやイヤホーンで聞くのではなく、季節、天気や時刻といったその時の状況が、実はすごく重要だということに、気が付いたのである。だから胡弓というと、その音色はいまだに朧月夜の公園の、湿った春の空気の匂いとともに私の記憶に残っている。

「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」『論語』というように、儒教では音楽はとても重要視された。「‥人として仁でなければ、楽をどうしようか」『論語』と言われるように、音楽というのは演奏者の人格がそのまま出てしまうので、音楽家はまず仁(愛)のある人間であることが求められる。どんなに耳に心地よい美声でも、そこに「媚」があれば品が落ちるし、悲しい曲を奏でる場合も、聴衆の気持ちも落ち込ませるような暗い演奏は避けたほうが良いとか孔子は音楽にはなかなかうるさい人だったらしい。中国にも音楽理論があり、平均律の計算が合わなかったが、明代になってから易の暦と結びつけ十二律を循環させることにより矛盾を解消させた。しかし、それ以来中国の音楽理論が重んじられることはなくなり、つまり数学に基づいた西洋音楽の理論のように発展しなかったのである。西洋音楽が美を目指しているのに対し、中国では音楽は儒教と結びつき道徳を目指したのも、音楽理論が発展しなかった大きな原因らしい。~参考「中国の音楽論と平均律」田中有紀

源氏物語も「・・いずれの御時にか‥」と過去の栄華を回想する形で始まるが、おそらく日本よりももっと長い歴史の中で「栄枯盛衰」を経験した中国。その栄華も華やかでスケールが大きく、プルーストの「失われた時を求めて」と同じくらい好きなのが「紅楼夢」。廃墟ブームだそうだけど、「今は盛りの・・」よりも「昔の栄華今いずこ・・」のような廃墟となっているほうがずっとロマンティックである。18世紀清朝に書かれた「紅楼夢」、作者である曹雪片は、幼少期は貴族の邸宅で乳母や腰元、小女たちに傅かれて育ち、時代が雍正帝に移り変わるとともに家は没落、没落後の極貧の中でこれを書いた。(曹家は雍正帝の父の康熙帝の寵臣の一族だったので小説にあるような贅沢な生活をしていた)この小説の主人公は天上の(岩石)。その岩石が地上に落ちて玉となり、その玉を口に含んで生まれたのが宝玉という少年なのである。「紅楼夢」の最初のほうに「仮(うそ)が真(まこと)となるとき、真もまた仮(うそ) 無が有となる処、有もまた無 」とあり、荘子の「胡蝶の夢」や、色即是空を連想させる言葉が出てくる。宝玉の生涯は天上の岩の見た夢なのか、あるいは天上のほうが夢なのか・・荘子の「胡蝶の夢」では虚と実が相互依存的に存在し、そして変化してゆく。※「胡蝶の夢」・・荘周は夢で胡蝶となっていた、目が覚めた荘周は自分が胡蝶になる夢を見たのか、あるいは胡蝶が夢見ているのが自分なのかわからなくなる。

宝玉の生まれ育った家はさながらミニ紫禁城のようで、広大な敷地に一族の家が何軒もあり、京劇を鑑賞するための舞台もあり、そうした建物は、池や庭園、回廊に囲まれている。側室や腰元たちに囲まれ、甘やかされて育った宝玉は、勉強は大嫌いな天衣無縫な子供。

なにをあくせく浮世を渡る
はなの宴もいつか果てんに
嬉し悲しも幻に似て
今はむかしの夢のはかなさ

冒頭の詩にあるように、宝玉は立身出世の俗世間には興味がなく、詩を詠んだり禅問答の真似事をしたり、腰元たちにちょっかいを出したりして遊んでばかり。宝玉の幼馴染が黛玉で、読書家で詩才はあるが神経質で病弱な少女。遊び好きの宝玉を陽とすれば正反対の陰の性格なのである。ところが年頃になった宝玉の婚約者として祖母が決めたのが、明るく健康な少女の宝鎈で、宝玉の結婚が宝鎈と決まったのを知って、黛玉は悲しみのあまり病死してしまう。黛玉の死から、徐々に賈家の家運は傾き始め、そして転がる石のように没落し・・やり手の政治家のように賈家の家政を取り仕切っていた煕鳳の死とともに、ついに一族は散り散りとなる。黛玉の死からなかなか立ち直れなかった宝玉だが、今や遊んでいる状況ではない。一念発起して科挙試験を目指し真面目に勉強を始め、見事に合格するが、合格したその日に行方不明となる・・仙人たちの住む天上に再び戻ったのである、というのが大まかなあらすじ。作者である曹雪片の体験が、かなり反映された小説。

家が傾くまで宝玉は、蝶よ花よと極楽とんぼのように遊び浮かれているが、彼を取り巻く環境は決して極楽ばかりではなくて、まるで紫禁城の後宮のように女同士のいさかいが常に堪えない。根も葉もないうわさをたてられて井戸に身投げする腰元、奥様や腰元にいびられて追い出される下女、放蕩したあげくに殺人まで犯す不良の叔父など、そうした大人の世界に囲まれた宝玉の心許せる友が、幼馴染の黛玉だった。春の日、散った花びらを一緒に埋葬したり、黛玉の演奏する琴の音色ですぐに彼女の心境を感じ取ることのできる宝玉、喧嘩も多いが、まさに「知音(相手の音を知る)」の関係なのである。(波長の合う親しい関係を「知音」という美しい言葉で表現する。相手の演奏する音色を聴いただけで、すぐさま相手の心がわかる関係)二人とも世俗から距離をとる処は似ていたが、社交的な宝玉は現実社会にも適応できる性格だった。

生まれたときから口に含んでいた(玉)を、宝玉は肌身離さずに持っているが、それをなくすと彼は正気を失ってしまう。(天上の岩)とつながっているときだけ、正気に戻るのだ。占いで(玉)には(金)が相性が良いと、(金)の性を持った宝鎈と家族の計らいで結婚させられる宝玉だが、黛玉のことは忘れる事ができなかった・・つまり、宝玉は天上の仙人ほど非情ではなく、かといって賈家の人々のように世俗の欲望に浸かるわけでもなく、黛玉との関係によって、宝玉は虚と実の間を生きたのである。黛玉の死によって、初めて宝玉は現実世界を生き始める。しかし、科挙試験に挑戦し、見事に成功したうえであっさりとそれを放棄するのだ・・

黛玉は、早く来る自分の死を予感させるような詩をたびたび書く。楽器の演奏にもそういった自分の運命を予感する傾向がどうしても表れてしまう。まるで、自分の人生全体を俯瞰している視点を無意識のうちに持っているかのごとくに。それはちょうど同じ空間に別の次元があるような感じで、中国の音楽理論である12平均律は循環し、正方形の中の円という、曼荼羅と同じ構図で表されるが、「胡蝶の夢」で夢と現実が入れ子構造になっているように、正方形の中の円という構図は終わりも始めもなく、虚と実はメビウスの輪のように無限に続いてゆく。

中国には庭園に奇岩を置いたり、盆石という小さな岩石を書斎において眺める風流な趣味があるらしい。(ネットで検索すると盆石はいまだに高額で取引されていて、山水画に出てくるような山の形をした小さな岩石とか見ることができて面白い)盆石を家の中に置くことによって、小さな自然を取り入れる。そういえば、つげ義春にも「石を売る」という面白い漫画があった。確か、お金がなくなったので、多摩川の河原で面白い形の石を拾ってきて子供と一緒に売る話。(もちろん売れない)

まるで本物の山のような形をした小さな岩石を見つめているうち、それが山のように見えてくれば、空間の感覚が狂ってきて、巨大な私が世界を眺めているのか?それとも、小さな私が眺められているのか?という変な感覚が起こるだろう。それは、子供の時、熱が出て寝ている時の、空間の感覚が狂う感じ(大きなものを小さく感じたり小さいものを大きく感じるような)にも似ているかもしれない・・世界はマトリョーシカ人形のように連続して、無限に続くのだろうか・・鉱物には凝縮された時間のような不思議な魅力があるが、凝縮された時間、瞬間の中には無限があるだろう。(微細なものに宇宙を見る)という中国人の感性は日本にも仏教とともに伝わり、それは日本ではたとえば尺八の音のように一つの倍音の中に、音楽を聴き取る感性となったんじゃないかと思う。

紅楼夢の四角い門に閉ざされた賈家の広大な邸宅は、さながら閉ざされたミニ国家のようであり、そこで起こる数々のいさかいや犯罪、濡れ衣を着せられて自死する腰元とか、あるいは詐欺事件、暴力など、まるで今日の日本のニュースにもあるような事件が次から次へと起こるのである。当時の中国の極端な男尊女卑の上に、厳しい階級制度。腰元や身分の低い下女たちは人間扱いされない。科挙試験に合格して門の外に出ても、門の外の世界ではおそらく似たような、あるいはもっと深刻な問題は起こるのだろう・・宝玉が科挙試験に合格した日に失踪したのは、結局どこにいても同じだということがわかったからだろう。

朱子学とともに完成された厳しい科挙制度はエリート・非エリートの差を拡大させ、貧富の差はますます拡大するだけだった。

18世紀、ルソーとほぼ同時代を生きた曹雪片は、貧困のうちに生涯を終えた。その後フランス革命が起こり、さらに時代が下ると清朝は滅亡し、やがて毛沢東の共産主義革命となるが、曹雪片の経験した栄枯盛衰も人の世の理不尽も、今日も相変わらず続いている。コロナが落ち着いたせいか、近所の公園を歩くと中国人観光客の姿が多くみられる。日本にも中国にも韓国にも、春の花を野外で楽しむ習慣がある。そして、中国は今またその経済力を盛り返している。清朝の時代、清は台湾、新疆地区、チベットの宗主国であり、世界のGDPの三分の一は清朝に集まっていた。清朝の皇帝や貴族は代々チベット仏教の信者であったので、清はチベットのパトロン国だったのである。(もともと女真族は文殊菩薩信仰で、文殊から満州という名称になった)ダライ・ラマ14世は決して中国の悪口を言わないし、チベット僧も決して中国の悪口を言わないのは、仏教の戒律を守っているのみならず、清朝の頃の中国とチベットとの関係の歴史を考慮しているのと、いまだに亡命チベット仏教徒のパトロンの多くは海外にいる富裕層の中国人だからじゃないかと思う・・

「紅楼夢」の主人公、主人公である宝玉も黛玉も、その性格は軽薄・我儘あるいはひねくれものだったりして、欠点の多いきわめて人間的な人物。賈家を治める煕鳳が,退廃的に堕落した家内をひきしめようと厳しく規則を強化するあたりから逆に告げ口などが横行し、賈家の人々は疑心暗鬼でバラバラになり、自己利益のことしか考えられなくなり賈家はついに崩壊する。(猜疑心の強い雍正帝の時代になってから、康熙帝の時代の贅沢や賄賂を戒めるべく厳しい刑罰を科したため、密告が横行したらしいが、それに対する批判だろうか?しかし、独裁者であった雍正帝はその反面、質実剛健、勤勉で民を優先して考えられる非常に優れた政治家でもあったのだ。しかし、中国に古くからある「朋党」つまり親分子分の関係の政治派閥は相変わらずはびこっていたらしい。・・今の日本にも存在するが・・)政治批判としても読めるこの小説の唯一の救いは、宝玉と黛玉の二人の愛になっているのではないだろうか。

※二胡の音楽。アービンという作曲家による「二泉映月」。Guo Ganの二胡の独奏が素晴らしい。You tube で聴くことができます。



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