SSブログ

子規・漱石 断想 №2 [文芸美術の森]

  子規、日清戦争従軍強行の心意は?  
                         松山山子規会 栗田博行(八荒)

    ①明治22年、余命十年の覚悟 — 点滅し始めた通奏低音

 
2-1.jpg
日清戦争従軍前夜の正岡子規

はじめに
 明治28年・28歳(数え)。日本新聞記者・正岡子規(本名-常規)は、なぜ結核の病身を押して日清戦争に従軍したのか……その心意は何だったのか?
 日本新聞の編集長で、自身も従軍した子規の上司・古島一念のこんな証言があります。
2-2.jpg「壮志一たび決しては禁ぜんとして禁ずる能はず
あの病躯を以て従軍がしたいと言ひ出した。
   是にはさすが豪傑揃ひの社中でも一驚を吃した。
   第一そんな身体で従軍などは思ひも寄らぬ
        死に行くやうなものだから
止(ヤ)めたらどうだと止(と)めたがなかヘ承知しない。
 『どうせ長持ちのしない身體だ、見たいものを見て、
したい事をして死ぬは善いではないか』と喰つてかゝる。
『しかしわざへ死に行くにも及ばんではないか』と言ふと、
      『それでは君いつまで僕の寿命が保てると思ふか』 など駄々をこねる。」
        (「古島一念・日本新聞に於ける正岡子規君」より・句読点ほか、論者による
           現代文向け改変・補筆あり。以下同様)
 対外硬の民族主義・アジア主義の論説で、「豪傑揃ひ」の日本新聞社に在っても、一旦は皆を驚かせる暴挙と受け取られたことがよく分かります。
 しかしやがて、命がけの真剣な行為であることが、子規の生涯の庇護者であり、日本新聞社主の陸羯南に理解さ2-3.jpgれたのでしょう…明治28年3月6日、子規・羯南連名の従軍願いが広島大本営宛で出されます。
その結果実現した日本新聞社員としての従軍行でした。3月21日付けで受理されています。子規は明治元年10月15日生まれですから、満27歳と5ケ月という年齢で、当時としては青年というよりはもう壮年と言うべきかも知れません。
 男子としてのその真剣さのルーツは、子規のそれまでの歩みのどこに根差しているのか。
     『したい事をして死ぬは善いではないか』
と、この歳にあって言い放つまで思い詰めた理由と、その思想的な内容とは、どういうものだったのか…。前回ご紹介した新体詩「若菜」の、敵国の幼子の身の上を想うような心情が、そんないきり立った益荒男気分を超えて、どのようにして生まれたのか…。漱石と並ぶ国民文学者・子規を、「戦争と平和への明治日本男子の態度」という観点から考えてみたいと思います。
 この観点から漱石についても触れておきますと(当欄の前身正岡常規と夏目金之助②で触れていますが、再説します)、同世代の明治男子でありながら、夏目金之助の生き方は、子規とは極めて対照的でした。
2-4.jpg
 述べてきたような子規の態度と反対に、漱石は明治25年・25歳の時、兵役の無かった北海道へ戸籍を送って兵役を回避しています。(実行主が父か、兄か、本人かは不明)そして、明治28年4月日清戦争終結の時には、子規の出身地松山に月給八十円の英語教師として着任しています。校長が六十円という時代で、夏目金之助は帝大卒ならではのエリート扱いでした。そこからの義務感でしょうか、子規への金銭の助けを惜しまなかったことがよくありました。従軍の帰途、2度目の大喀血をして死にかけ、命を取り留めた子規に呼びかけて、自分の下宿で52日間の同居生活をしたりもしています。
 日本新聞記者として出張中の社員である子規に、漱石はナゼ「寄って行かないか」と呼びかけたのか…。また、子規は子規で、ナゼ日本新聞社へも、八重・律の待つ東京根岸へも帰り急がず、ノコノコと漱石の誘いに乗ったのか…。二人の文豪の共同生活の理由は、まだ謎が残ったままと論者(八荒)は感じています。いつか当欄で触れたいと思います。
 子規従軍の謎に、戻ります。

①明治22年、余命十年の覚悟 — 点滅し始めた通奏低音
 「『しかしわざヘ死に行くにも及ばんではないか』と言ふと、『それでは君いつまで僕の
   寿命が保てると思ふか』 など駄々をこねる。」
古島一念が書きとめたこの言葉は、一見命を惜しまないなげやりな気分に陥った明治男子を思わせますが、実際には6年前の明治22年5月、22歳(数え)で体験した喀血に根差した、真剣な心情の帰結でした。
2-5.jpg         
 卯の花を めがけてきたか 時 鳥 
  卯の花の 散るまで鳴くか 子 規 

激しく喀血した夜こう詠んで、以後鳴いて血を吐く「ホトトギス=子規」と名乗った(=自称した)ことはよく知られています。
 従軍に先立つ6年前の5月、22歳の正岡常規青年は、実はこの時もう一つ心の奧底に宿った思いを書き記していたのです。
 それは、掲題した「余命十年」という心情でした。
 喀血した年の夏休み、郷里松山に帰省した正岡常規は「子規子」という長い文章を書いています。〈子規という人物〉という意味を込めたの題名と思われますが、その中に「啼血始末」という、戯曲仕立ての一節があるのです。閻魔大王の判事に、赤鬼と青鬼が検事として、子規と名乗る青年の喀血に至る行状を告発する法廷劇という仕立になっています。卯の花の2句も、喀血の夜以来「子規」と名乗り始めたことも、検事に責められてこの法廷で被告として告白しているのです。発病を貧乏のせいにしながらも、虚弱だった割には自重してこなかった自分の行状を詳しく陳述…まるで後年の日本文学の、作者が自身の「自分」を緻密に追及する文学=「私小説」の原型とも思えるような一面を持っています。(八注・戯曲仕立てであり、趣向は後の「私小説」とは大きく異なるのですが…。)
 いざ判決という段になって、赤鬼検事は被告「子規生」の罪状を列挙した末に、閻魔大王の判事に向かって次のように論告・求刑します。

    赤鬼「…今被告は少しの遺伝もなくして自ら肺患を醸せしは罪の最も深き者なり。
           …家を興し亡父の名を挙ぐる能はず
              …一人の母をだに安心させることもできず
        …叉国民の義務上よりいふも…兵役に就く能はず
           …国家の経済上より論ずれば、…所謂穀潰しとなるは
              禽獣にも劣りし者なりと謂はざるべからず。
              故に…今より十年の生命を与ふれば澤山なりと思考します。
                 もっとも附加刑は焦熱地獄がよからうと思ふ。
           そのわけは被告は娑婆に在ては常に寒気に苦しんだから地獄では
           反対に苦しませるの意であります。」
                      (…は、論者意訳の省略・以下同様)   
 正岡常規という明治の青年が、22歳の自分自身に、戯曲の赤鬼検事の口を借りて、喀血した自分を告発し続2-6.jpgけ、結論として
     「今より十年の生命を与ふれば澤山なり」
                 と断罪しているのです。
 赤鬼の言葉を書いているのは子規自身…。ですからこの言葉は、5月に身に降りかかった衝撃の事実を、9月まで凝視し続けた明治の青年・正岡常規の、命の残りへの冷静な認識の顕れと言えるのです。
 文章を書くと、よく周りの友人に見せて反応を楽しんでいた若者にしてはこの一文にはあまりその形跡が残っていません。子規(血を吐く鳥)と名乗りはしても、「余命十年」の認識は、秘かな覚悟として胸底に置いたことが感じ取れます。
 明治33年、徳富蘆花の「不如帰」で、結核を病んだ浪子の「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう!生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」という悲嘆の言葉が世を席捲しました。これに先立つこと11年、早々と自分の命を残り十年と見定め、結核という病がもたらす短命を秘かに自覚していた明治青年・正岡常規だったのです。
2-7.jpg 以来、鳴いて血を吐く「子規」を雅号としましたが、以後の彼の行動は、むしろ様々な面で活発さを増して行きます。
 野球姿の方は、明治23年3月撮影したものです。
 喀血翌年の春、実際にプレイした時の記念に撮ったものです。楽しんで文通をつづけていた友人・大谷是空君に〈恋知らぬ猫のふり也玉あそび〉と書き添えて贈ったりしてはいるのですが。その前便では〈小生近頃子規病に御縁遠く御座候 尤先日学校にて肺活量計り候所たった270リットル〉と報告したりもしてはいるのですが…。
 簑笠・草鞋の方は、明治25年箱根越えの旅をした時のものです。この旅からまとめた紀行文「旅の旅の旅」は、11月に日本新聞に掲載されています。この年、俳論や紀行文で日本新聞気鋭の学生ライターとしてデビューを果たしたのでした。                    
 いずれの写真も喀血以後のものです。それまでも活発に生きていた青年が、一段とギアを挙げて生き急ぎ始めた印象があります。充実した生の証として写真を撮る…そんなハートが感じられます。今回の冒頭に掲げた日清戦争従軍前夜の一葉には、「…故ニ撮影ス」との裏書がしてあります。貧乏だったわりに、子規はよく記念写真を撮った人でした。
 この旅姿の写真を撮った明治25年は、余命十年の覚悟を持ってから3年目でした。ここへ来て生活する人としての子規は、正岡家長男として思い切った決断と実行を重ねていきます。6月に落第したこともあって、帝大国文科の退学を内心で検討。生計を立てていく心づもりから、後に生涯の恩人と慕うようになった陸羯南に近づき、日本新聞社ライターの仕事を始めます。羯南の世話で東京根岸に借家すると、11月には母・八重と妹・律を呼び寄2-8.jpgせ、一家での暮らしを始めます。喀血以来考えてきたことの結論だったのでしょう。
大阪まで出迎えて一家で上京。その車中〈母様に見よとて晴れしふじの雪〉、根岸に着いて一家暮らしを始めるため所帯道具を買いに出かけ、〈買ふてくる釣瓶の底やはつしくれ〉とも…。その上で12月には日本新聞社への就職を確定します。
 帝大卒の学士の月給が50円だった頃の15円からのスタートでした(仰臥漫録)。「もっと給料の良い所を紹介しようか」とまで心遣いをしてくれた羯南の言葉を、断固断っての進路の確定でした。翌年の3月には、「卒業だけはしておき給え」との漱石の忠告にもかかわらず、帝国大学中退を実行してしまいます。
 22歳での喀血はこの青年に、「書く」という面でも、大きな衝撃をもたらしたのでした。感じ考えたことを何でも書き付けていた青春随筆「筆任せ」では、喀血の前の年の明治21年は26タイトルだったものが、喀血した22年には102タイトルと激増しています。発病の事は、「子規氏」の中の戯曲「啼血始末」にまとめてあり、「筆任せ」とは別文となっていての、この激増ぶりなのです。他にも紀行文や漢詩、まだ研究段階でしたが句作の数も増えています。
 さらに、漱石や大谷是空他、友人との文通も一段と活発になります。何でもかでも猛烈に書きまくる姿勢を、漱石に批判されたこともあった正岡常規でしたが、「子規」を名乗り始めて、また一段と激しく書く人になった感があります。その上での、喀血3年後の日本新聞社就職は、文学青年としての試行錯誤を切り上げ、かつ「書く」ことを自己の核心に置き続け、生計もそれで立てていくという「生き方の確定」でした。明治の文系エリート青年にあって、は「モラトリアムの終了と自己決定」の点で、子規は端的で先駆的な存在だったと言えまるのではないでしょうか。
 以上見たように、「今より十年の生命を与ふれば澤山なり」という喀血がもたらした自己認識は、もともと活動的だった正岡青年にブレーキをかけることにはなりませんでした。慎重に療養に専心するのとは、まるで逆に作用したのでした。「余命十年」の人生を如何に生きるか……その中で完全燃焼することに覚悟を定めたことが、以後の過ごし方の総てにわたって顕われてくるのでした。日清戦争従軍は、そのもっとも端的な顕われのひとつだったのです。『それでは君いつまで僕の寿命が保てると思ふか』と古島先輩に発した言葉は、22歳5月の喀血の夜以来、心の底で点滅し続けていた通奏低音がひときわ強く鳴った時だったと言えましょう。一時的な激情に駆られての言葉ではなかったのです。

従軍内定 ― 人生二度目の快事
 従軍が内定した時、郷里の後輩で看護兵として日清戦争に招集されていた五百木瓢亭に、こんな心境を伝えています。
(瓢亭は、日本新聞社で「小日本」を編集長格で担当していた頃子規が
      呼び込んだスタッフ。出征先から「犬骨坊」の筆名で従軍日記を「日本」に1年間連載。)

    「皆にとめられ候へども雄飛の心難抑(おさへがたく)終(つひ)に
     出発と定まり候 生来希有(けう)の快事に候
       小生今迄にて最も嬉しきもの
         初めて東京へ出発と定まりし時
         初めて従軍と定まりし時の 二度に候」 
                  (明治28年・2月・26日、五百木宛) 

 従軍内定は、人生二度目というほどの喜び事でした。しかし戦地にいた五百木瓢亭には、入れ違いになってしまったらしく、瓢亭の方は子規宛てにこんな発信をしていたのでした。
2-9 のコピー.jpg
 
 
   「従軍御志願御尤なれど貴兄の為には
    われ其断じて不可なるをいふ 
    冬季より夏季の瘴毒
    これが恐らくは最大の強敵なるべし」
        (明治28年・2月末、五百木出征先より)


 五百木瓢亭は、医療者の資格を持っていたため早々と招集を受けた若者でした。その出征先から、戦場の実際と子規の健康状態を想い合わせての親身な忠告でした。しかしそれが間に合っていたとしても聞く耳を持つ子規ではありませんでした。
 ところが、内定はしても、もう日清戦争は終戦近くでもあり、なかなか出発日時が確定しない状態が続きます。
 そこで子規は郷里へ足を運んでの墓参りを思い立ちます。待機中の広島宇品から対岸の松山に、3年ぶりの帰省をするのです。従軍ルポルタージュ「陣中日記」(明治28年4月28日から子規子の名で日本新聞に発表)には、出発前の3月15日の記事として、放置して草まみれになっていた墓の前で胸を打たれて立ち上がれなかったことをひと言記し、「畑打よこゝらあたりは 打ち残せ」と詠んでいます。そしてその想いを、心身ともさらに痛烈な試練(後日詳述)を潜った一年半の時間を置いて、「父の墓」と題する新体詩で、一段と深く世間に向かって発表しているのです。その一節です。
               
2-10.jpg         一、父の御墓に詣でんと               
     末広町に来て見れば
     鉄軌寺内をよこぎりて          
     墓場に近く汽車走る。
     石塔倒れ花萎む‥‥

            二……旅に住む身は年々の
              祭りも心のままならず。
           父上許したまひてよ。
             われは不孝の子なりけり。

   三、勉め励みて家を興し
      亡き御名をもあらはさんと、
                      わが読む書のあけくれに
     思ひしこともあだなりき
2-11.jpg         出づるに車、食に魚、
          残りたまひし母君を
           せめて慰めまつらんと
     思ひしそれさへあだなりき。
         学問はまだ成らざるに
          病魔はげしく我を攻む。……

   四、わが去る後は、夜を寒み
         粟の畠の月に鳴く
     虫より外に、露わけて
        吊ふ人もなかるべし。
     また得詣でじ。
      今生の御いとまごひ申すなり。
        父上許したまひてよ。
           われは不孝の子なりけり。
        (明治29年8月29日・雑誌日本人・筆名 竹の里人)

 自分の人生経験の一瞬を、経験したその時には「畑打よこゝらあたりは打ち残せ」という一句に詠み、それから一年半の時を経てもその同じ経験から、今度は新体詩「父の墓」を詩い上げているのです。ともに正岡常規という明治男子の文学作品でした。作者としての名乗りは、子規子と竹の里人と違えてはいるのですが…。
 いずれであれ、自分が経験したことを見つめ、そこから書き記すことから自分の生き方と作品を作って行った明治の文学の先覚者の、自然な在り方が感じられます。新体詩「父の墓」には、その経験を見つめた一年半という時間を経て結晶した、俳句とは違った重さが、実現していると感じられます。
 子規は父を早くに亡くし、じかに接した思い出をほとんど持たずに育ちました。22歳・喀血直後の「筆まか勢」にも、「父は高慢にして強情 ―意地わるきかたなりしと」などと、周りからの伝聞を記しただけで、明治維新で落剝した士分であった父親が抱えていた鬱屈には、まだ少しも気づけていない青年でした。(八注・既に書きまくる文筆青年となっていても…。)しかし3年後の従軍直前のこの墓参の時には、壮年期のライフステージの入り口に立った明治の家長たる者の、切々たる自責の感情が詩われています。明治男子・正岡常規の生活人としての成長と、明治の国民文学者・子規が脈々と躍動し始めていることが感じられます。
2-12.jpg 新体詩「父の墓」を、NHK松山のテレビ番組で、朗読とともに紹介したことがありました。
  「父上許したまひてよ。
    われは不孝の子なりけり。」
 福本儀典アナウンサーの朗読でリフレインされたこの一節は、墓前で慟哭するような子規の姿を彷彿させて、胸に響くものがありました。一般の視聴者の共感はもちろんでしたが、番組を見る機会があった映画監督の大島渚さんが、「栗田さん、父の墓のところで泣いちゃったよ」と話しかけてくれたことがありました。大島さんも父を早く喪った成長期を持った人であったことを、のちに自伝的な文章で拝察しました。新体詩「父の墓」が、明治はもちろん戦後の昭和にあっても人の心を打つ作品であると強く感じた次第です。
 子規は、始まった日本の近代社会「明治」の中を、病身を押して全力で生きた人でした。その結果人間だれしも直面する人生の事柄を、きわめて素直な写生の目で見つめ、考え、率直に表明した文学者でした。そこに子規の残した文学の、時代を超えた強さがあると思っています。俳人として受け止められることの多い正岡子規ですが、竹の里人の名で発表された新体詩「父の墓」も、その一典型だと思います。

 さてここまで、子規の日清戦争従軍の行為として表れた真剣さと熱意を見てきましたが、それをもたらした内面の中心にあったものには、まだ充分には触れていません。次回は5月1日を予定しますが、「壮志の中核―文学者も行かざれば怯」という視点を置いて、古島一念が「壮志」と呼んだ激しい感情と意思の中核にあった思想と論理(テーマ)に、目を向けて行きたいと考えています。長引くウクライナの戦争がどうこの小論に響いてくるのか…その点自分自身戸惑いつつ、取り組んでゆきます。お付き合い下されば幸いです。



nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。