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郷愁の詩人与謝蕪村 №2 [ことだま五七五]

蕪村の俳句について

       詩人  萩原朔太郎

  君あしたに去りぬ
  ゆうべの心千々ちぢに何ぞ遥はるかなる。
  君を思うて岡の辺べに行きつ遊ぶ。
  岡の辺べなんぞかく悲しき。

 この詩の作者の名をかくして、明治年代の若い新体詩人の作だと言っても、人は決して怪しまないだろう。しかもこれが百数十年も昔、江戸時代の俳人与謝蕪村によって試作された新詩体の一節であることは、今日僕らにとって異常な興味を感じさせる。実際こうした詩の情操には、何らか或る鮮新な、浪漫的ろうまんてきな、多少西欧の詩とも共通するところの、特殊な水々しい精神を感じさせる。そしてこの種の情操は、江戸時代の文化に全くなかったものなのである。
 僕は生来、俳句と言うものに深い興味を持たなかった。興味を持たないというよりは、趣味的に俳句を毛嫌いしたのである。何故なぜかというに、俳句の一般的特色として考えられる、あの枯淡とか、寂さびとか、風流とかいう心境が、僕には甚だ遠いものであり、趣味的にも気質的にも、容易に馴染なじめなかったからである。反対に僕は、昔から和歌が好きで、万葉や新古今しんこきんを愛読していた。和歌の表現する世界は、主として恋愛や思慕の情緒で、本質的に西洋の抒情詩とも共通しているものがあったからだ。
 こうした俳句嫌いの僕であったが、唯一つの例外として、不思議にも蕪村だけが好きであった。なぜかと言うに、蕪村の俳句だけが僕にとってよく解り、詩趣を感得することが出来たからだ。今日最近にいたって、僕は漸ようやく芭蕉や一茶いっさの句を理解し、その特殊な妙味や詩境に会得えとくを持つようになったけれども、従来の僕にとって、芭蕉らの句は全く没交渉の存在であり、如何いかにしてもその詩趣を理解することが出来なかった。それ故に僕にとって、蕪村は唯一の理解し得る俳人であり、蕪村の句だけが、唯一の理解し得る俳句であったのだ。
 この不思議なる事実。僕があらゆる俳句を理解し得ず、俳句を本質的に毛嫌いしながら、一人例外として蕪村を好み、彼の俳句だけを愛読したという事実は、思うにおそらく、蕪村の情操における特異なものが、僕の趣味性や気質における特殊な情操と密に符合し、理解の感流するものがあったためであろう。そしてこの「蕪村の情操における特異性」とは、第一に先まず、彼の詩境が他の一般俳句に比して、遥かに浪漫的の青春性に富んでいるという事実である。したがって彼の句には、どこか奈良朝時代の万葉歌境と共通するものがある。例えば春の句で

  遅き日のつもりて遠き昔かな
  春雨や小磯こいその小貝ぬるるほど
  行く春や逡巡しゅんじゅんとして遅桜おそざくら
  歩行歩行ありきありきもの思ふ春の行衛ゆくえかな
  菜の花や月は東に日は西に
  春風や堤つつみ長うして家遠し
  行く春やおもたき琵琶びわの抱だきごころ

 等の句境は、万葉集の歌「うらうらと照れる春日に雲雀ひばりあがり心悲しも独し思へば」や「妹いもがため貝を拾ふと津の国の由良ゆらの岬みさきにこの日暮しつ」などと同工異曲の詩趣であって、春怨思慕(しゅんえんしぼ)の若々しいセンチメントが、句の情操する根柢こんていを流れている。さらにまた左の如き恋愛句において、こうした蕪村の青春的センチメントが、一層はっきりと特異に感じられるのである。

  白梅しらうめや誰たが昔より垣の外そと
  妹(いも)が垣根三味線草さみせんぐさの花咲さきぬ
  恋さまざま願ねがいの糸も白きより
  二人してむすべば濁る清水かな

 蕪村の句の特異性は、色彩の調子トーンが明るく、絵具が生々なまなましており、光が強烈であることである。そしてこの点が、彼の句を枯淡な墨絵から遠くし、色彩の明るく印象的な西洋画に近くしている。

  陽炎(かげろう)や名も知らぬ虫の白き飛ぶ
  更衣(ころもがえ)野路のじの人はつかに白し
  絶頂の城たのもしき若葉かな
  鮒鮓(ふなずし)や彦根ひこねの城に雲かかる
  愁ひつつ岡に登れば花いばら
  甲斐ヶ嶺(かいがね)や穂蓼(ほたで)の上を塩車(しおぐるま)

 俳句というものを全く知らず、いわんや枯淡とか、洒脱しゃだつとか、風流とかいう特殊な俳句心境を全く理解しない人。そして単に、近代の抒情詩や美術しか知らない若い人たちでも、こうした蕪村の俳句だけは、思うに容易に理解することができるだろう。何となれば、これらの句には、洋画風の明るい光と印象があり、したがってまた明治以後の詩壇における、欧風の若い詩とも情趣に共通するものがあるからである。
 僕が俳句を毛嫌いし、芭蕉も一茶も全く理解することの出来なかった青年時代に、ひとり例外として蕪村を好み、島崎藤村しまざきとうそん氏らの新体詩と並立して、蕪村句集を愛読した実の理由は、思うに全くこの点に存している。即ち一言にして言えば、蕪村の俳句は「若い」のである。丁度万葉集の和歌が、古来日本人の詩歌の中で、最も「若い」情操の表現であったように、蕪村の俳句がまた、近世の日本における最も若い、一ひとつの例外的なポエジイだった。そしてこの場合に「若い」と言うのは、人間の詩情に本質している、一の本然的ほんぜんてきな、浪漫的な、自由主義的な情感的青春性を指しているのである。

 芭蕉と蕪村とは、この点において対蹠的たいせきてきな関係を示している。もちろん本質的に言うならば、芭蕉のポエジイにもまた、真の永遠的の若さがある。――すべての一流の芸術は本質的に皆若さを持っている。その精神に「若さ」を持たない芸術は、決して真の芸術ではない。特に詩においてそうである。――しかしながら芭蕉は、趣味としての若さを嫌った。西行さいぎょうを好み、閑寂かんじゃくの静かさを求め、枯淡のさびを愛した芭蕉は、心境の自然として、常に「老ろう」の静的な美を慕った。「老ろう」は彼のイデア――美しきものの実体観念――だった。それ故に彼の俳句は、すべての色彩を排斥して、枯淡な墨絵で描かれている。もちろん僕らは、その墨絵の中に訴えられている、詩人の深い悩みと感傷とを感ずる故に、それは決して非情緒的ではないけれども、趣味としての反青春的風貌ふうぼうを感ずるのである。しかるに蕪村は、彼のあらゆる絵具箱から、すべての花やかな絵具を使って、感傷多き青春の情緒を述べ、印象強く色彩の鮮やかな絵を描いている。
 それ故に芭蕉の名句は、多く皆秋の部と冬の部とに類属している。自然がその艶麗えんれいな彩筆を振ふるう春の季節や、光と色彩の強烈な夏の季節は、芭蕉にとって望ましくなく、趣味の圏外に属していた。これに反して蕪村の名句は、多く皆春と夏とに尽くされている。だがこの観察は、蕪村俳句のより本質的な点からみて、皮相な一面観にしかすぎないのである。むしろ蕪村の本質は、冬の詩人とさえ言わるべきだ。しかしこの解釈は、後に「春風馬堤曲しゅんぷうばていのきょく」で反説しよう。

『郷愁の詩人与謝蕪村」 青空文庫


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