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山猫軒ものがたり №13 [雑木林の四季]

無言のいのち 1

        南 千代

 三羽のキジのヒナたちはすっかり大きくなり、小さな巣箱の天井に頭が届くほどになった。人が近づく気配がするだけで、驚き、警戒し、ハタハタと飛び上がろうとする。鶏とはやはり違う。
 家畜ではなく野生の動物は、野生で生きたほうがよい。山の中に放した。
 秋が実を結ぼうとしていた。谷あいに見知らぬ男が二人、何やら三脚のようなものを立て、図面を広げている。やがて引きあげたが、胃にザラリとしたものを飲み込んだような感触が残った。
 「ここをな、今年いっぱいで出ていってくれって言うんだ」
 大家のばあさんが目を丸くして駆けつけてきたのは、それからしばらく経った十二月も半ばのことである。
 「うちじゃ南さんに貸してあんだから、そんなわけにはいかねえ、つて言ったんだけどな」
 話は、こうである。山猫軒から谷を北に上がりハ砂利道の車道を小野路の集落とは反対側に向かうと、数百メートルで町田市から多摩市に入る。途端に片側三車線もある舗装道路が広がり その両側には、近代的な集合住宅や整備された住宅予定地が出現するのであった。二キロも行くと、京王多摩センターの駅である。急速に進む都市開発から出るゴミや残土の処理場としてこの谷が選ばれたのだった。
 山猫軒のある谷は、歴史環境保全区域に続いてはいても、その中には含まれていなかった。
 埋め立て業者からは、「他の地主はみんな了解してくれたから、お宅も」と言われ、とはいえ、そこで暮らしている私たちのことを思えば、すぐに「はい」とも言えない大家の誠実さと立場は充分に分かっている。
 大家を困らせる気は毛頭ないので、すぐに出ていきたいのはやまやまである。が、問題がひとつあった。私たち二人であれば、住む所など、アパートでもマンションでもどこでも見つかるだろうが、たくさんの動物たちがいる。
 業者の希望に添うとすれば、出るまでに、ひと月ぐらいしか時間の余裕がない。飼っている動物たちを連れて住める引っ越し先が、その間に見つかるだろうか。とにかく、引っ越し先を大急ぎで捜すことと、埋め立ての予定や状況を正確に知るために、業者にもっと詳しい話を聞こうということで、その日、ばあさんは帰っていった。
 帰りぎわにばあさんは、私たちへのなぐさめとも、長年住んだ家を埋めることへのあきらめともつかぬ口調で、こう言った。
 「お上のすることだから、しかたなかんペな」
 私は、テレビの時代劇でしか聞いたことのないセリフに、ことばを失った。
 大家も詳しいことは、わかっていなかった。残土処理業者は、「もう必要のない家だろうから、いつかは処分しなければならないだろうし、この機会に埋め立てて平地にしておけば、その分面積も利用価値も大きくなって、得になる」と大家に言ったそうだ。経済的に損か得かで言えば、まったくそのとおりだと、私も思う。
 山猫軒の周囲に土地を持っている数人の地主にしても、土地のほとんどは使っていなかったから、この話に反対する者は一人もいなかった。むしろ、業者のこの提案は、歓迎すらされたに違いない。
 「この谷がずっと向こうまで埋まって、広々となるのを見てみてえ」
 と言う地主もいた。
 フラリと住みついて二年にもならない私たちに、代々何十年も何百年も、好むと好まざるとにかかわらず住み続けてきた人の気持ちを、とやかく言うことはできないし、言うつもりもない。彼らには、彼らにしか見えないものがある。しかし、フラリと立ち寄った目だからこそ、見えるものもある。
 住み続けた人たちにとっては、空気のようにあたりまえだった、冷たく澄んだ湧き水。沢蟹や報命を知らせるフキノトウや娘の声。一両に野原を染める見事なすみれやつくしのじゅうたん。土手から顔をのぞかせるモグラや野ネズミ。雑木の林に千年杉の木。朽ちかけたお稲荷さん。土の匂いや風の声。
 私たち人間と違い、工事から逃れることのできない命は、ただ黙ってコンクリートのガラやゴミに埋められていく。
 多摩ニュータウン周辺は続々と開発が進み、テラスハウスや高層住宅、住宅団地、商店街、デパートや公共機関が建設されようとしていた。土地は平らに造成され、以前はどのような地形でどんな表情をしていたのか想像すらできないが、つい昨日までは周辺一帯も、雑木林や田園のおだやかさに満ちた村々であったのだろう。
 村には、充分過ぎるほどの時の中から生まれた、それぞれの土地を呼ぶ字の名があり、夏の小川で遊ぶ子どもたちも、キッネもフナもカブトムシも、みんな同じ土の上で暮らしていただろう。人と、人以外との命、互いの距離は今よりずっと近かったに違いない。
 経済社会に通用する声を持たない動植物は、棲み家を追われ、埋められ。自分の土地に愛着を持つ人々も、開発に伴う経済的貧しさから豊かさへ、あるいは静けさと退屈から賑やかさと刺激への期待を秘めつつ「お上の言うことじゃ、しょうがねえべ」とあきらめ、「発展に協力する立場」を支えに、土地の買収に応じるしか術がなかったのかもしれない。
 正月に、畑地の相談に大家を訪ねた時の、ばあさんのことばを思い出した。ばあさんは、自分の家は百姓なのに、庭まわりにほんの少しの畑しかない理由を私たちに話した。
「おらんちだって、昔は、今のセンターのこっちかたに、田んぼと畑があったんだ。だけんどが、お上が差し出せ、つていうことになってな。うちじゃ、そこしか畑はねえからイヤだって言ったんだけんど。ダメだったな」
 この時代に、お力ミが土地を差し出せ、なんてことがほんとにあるんだろうか。と思ったが、話は、昭和四十年代後半、田中角栄が日本列島改造論を打ち出した頃のことである。
 ばあさんの田や畑は、昭和四十八年に施行された新住宅市街地開発法により、ほんとに強制買収されたのだった。これは、それまでの法と違って、買収に反対すれば強制収用もできる強力な法律で、施行の第二号は、当時、急ピッチで実現を進めていた多摩ニュータウンと、大阪の千里ニュータウンである。
「まったく、二足三文で取り上げられちまってよ。あんましくやしいから、杭打ちの前の日に、下肥(しもごえ)運んでって、畑にうんとまいてやったんだ。そんなことしても、何にもなんなかったけどな」
 ばあさんは、昔を思い出したのか、さびしそうに笑って言った。

『山猫軒ものがたり』 春秋社


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