SSブログ

夕焼け小焼け №9 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

蔵書を処分する

            鈴木茂夫

 ある日、三鷹の古書店から封書が届いた。
 「古い本や専門的な古本の買取を歓迎します。 ご自宅へ出張買取に参ります。蔵書を買い取ります」
  封書を手に、蔵書を眺めてみる。書斎の三方は書籍で埋まっている。寝室の壁面の一つも書棚だ。六十年以上の  読書の結果だ。私の知識の源泉といってもいい。
 年金で生活している身は、つましく暮らさなければいけないが、蔵書を処分しなければならないほど、差し迫っているのでもない。まあ、おいておけば良いかとそのままにしておいた。
 ところが、こどもたちが、身辺の整理をしなければいけないよと、長年使ってきたサイクリング用の工具だとか部品を、ひとまとめにしてきた。工具や部品には、それぞれ思い出と愛着がある。それを吹っ切らないと片付かないのだ。
 「サイクリングに出かけなくなって二十年以上は経過している。処分しよう」
 一山になっていた道具類は、ポリ袋にまとめられ、立川市のゴミ収集の車に投げ入れられた。
  これにならって、蔵書も処分しようと決め、古書店に連絡した。 数日後、ワンボックスカーが庭に到着した。
 古書店の主人と若者が二人、挨拶もそこそこに二階の書斎へ入る。主人が電卓を片手にすぐさま書籍を点検。しばらくすると、
 「しめて八千五百円で、お願いします」
 主人が何か計算間違いをしたのかと、手元の電卓を見たが微動だにしない。値段が適当かどうかではない、ともかく処分するのだと、
 「分かりました。それでお願いします」
 蔵書は念入りにヒモでくくられ、運び出された。塞がっていた壁面がさっぱりしている。

 私は蔵書を回顧する。その一つが『小説の方法』伊藤整だ。昭和24年、早稻田大学に入学した直後に購入した。文学を学ぶのだからと夢中になって読んだ。
 著者は逍遥以降の作家を取り上げ、ヨーロッパの小説と日本の違いを仮面紳士と逃亡奴隷に分類して対比する。
近代日本文学の大きな流れとしては私小説がある。作家が体験した事実をそのままに描くのだ。「貧乏と病気と女の苦労」を題材とするのだ。社会の規範から逸脱していることも書かれているから、逃亡奴隷とみる。たとえば私が読んだことのある志賀直哉、尾崎一雄、太宰治、川崎長太郎などを改めて眺めてみなくてはと思ったのだった。
これに対してヨーロッパの小説は、自己の内面にさまざまな葛藤や欲望を抱えていても、それを作品に表出することはない。だから仮面紳士だという。たしかに『戦争と平和』のような大型の作品には、私小説に属する、つまり逃亡奴隷の内容はみられない。
 それは、これまでの近代文学の論評にはみられなかった新しい切り口だ。
 この仮面紳士と逃亡奴隷という分類というか概念に心惹かれた。ヨーロッパの小説と日本の小説との違いが浮彫りされている。
 私は伊藤整に感化されて、いっぱしの文学批評家になったような気分だった。
 翌年、『鳴海仙吉』が上梓されると、すぐに買い求めた。北海道を舞台にした大学講師鳴海仙吉のさまざまな生活が、異なった文体で描かれている。文芸評論や手記、それに戯曲もある。伊藤整の小説の表現の試みがあった。
また昭和25年、ジェイムス・ジョイスの『チャタレイ夫人の恋人 ロレンス選集』の翻訳が出た。友人から借用して読んだ。
 
 古本屋が私の蔵書をヒモで縛っているのを眺めながら、こんな思いをしていたのだ。いまだに忘れられないのが、『小説の方法』だ。思い出すと20代の自分が現れる。
 文学の奥の深さに感じていた。貧しい学生生活だったが、文学部に在籍しているのは、ひそかな誇りでもあった。


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。