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多摩のむかし道と伝説の旅 №106 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

          多摩のむかし道と伝説の旅(第25話)
           -武蔵国分寺の瓦が来た道-2
                原田環爾

106-1.jpg 川越道を左にやり秩父道を進む。200mばかり進むと国道463号線に出るのであるが、途中の路地を南に100mも採れば入間の古刹愛宕神社があるので立ち寄ることにする。入間愛宕神社には元弘の変の立役者新田義貞の遺児で南北朝動乱期に関東で活躍した南朝方武将新田義興の首塚と首塚の松、それに従者の十三塚があることで知られている。
  新田義貞の亡き後、次男新田義興は正平7年(1352)宗良親王を奉じて新田一族を率い、南朝再興のため鎌倉を掌握する足利軍に激しく反抗し、武蔵野合戦を展開した。しかし正平13年(1358)多摩川矢口の渡しで、幕府の意を受けた江戸遠江守により、家臣13人と共に謀殺される。すなわち遠江守により差し向けられた舟に、義興と家臣13人が乗ったところ、あらかじめ言い含められていた渡し守は、舟底の栓を抜いて逃げ去り、それと同106-2.jpg時に両岸から数百の軍勢が矢を射かけたため、兜・鎧の武士たちは身動きがとれず、義興は最早これまでと自害して果ててしまった。従者には対岸まで泳ぎついたものもあったが、群がる敵兵と戦い自害したという。謀殺された主従の首は、入間川御所で関東管領足利基氏により首実験され、その後義興の首は愛宕神社の社前に葬られ首塚となり、松・杉2本の枝を挿したという。時に義興28歳であった。その松は大木となったが、惜しくも伊勢湾台風で枯死し、現在の松は2代目である。なお義興の胴体は大田区の新田神社に胴塚として埋葬されている。 一方13人の家臣の首は神社の周辺に埋められ、十三士の塚が散在していたが、都市化による風化から守るため、当神社の境内に十三塚を移設したという。ちなみの騙し討ちした江戸遠江守は義興を討ちとって13日後、矢野口渡しで突然の豪雨にあい、落馬して血を吐き、7日間もがき苦しんだ末、変死したという。世に義興の怨霊として恐れられた。
106-3.jpg 愛宕神社を後にし元の秩父道から国道463号線に入る。そこは丁度入間市役所前の交差点になっている。交差点の南東角地は入間市民体育館やグラウンド・テニスコートなどがある縦横約200mほどの広い運動公園となっている。秩父道は交差点から公園を南東方向対角線につききっていたようだが、今は消滅しているので公園内をジグザグと進むことにする。すると公園の南東端の角地から秩父道の続きと思われる街路が現れる。ここからしばらくは単調な街路が続く。やがて沿道左にこんもり樹木が茂る富士見公園が現れる。スポーツ、レクリエーションの場として、また防災拠点として昭和56年に開設された公園で、園内には300本以上の欅が立ち、気持ちのいい散策路が設けられている。次いで入間扇町屋団地を左にやり、かえで通りを横切り、入間ヶ丘緑地を抜けると、左手に調整池が現れる。道はここで右へ鍵の手に曲がる。曲がり切るとそこは藤沢中学の前になる。ということはこの辺りから入間市の藤沢に入ることになる。なお藤沢という地名は源頼朝の家臣藤沢清親に由来するという。藤沢清親は弓の名手で、頼朝が建久4年(1192)武蔵入間野で追鳥狩をした時、藤沢の弓技に感心してこの辺り地名を藤沢としたという。
106-4.jpg 校庭沿いの道を進むと程なく比較的大きな車道「安川通り」との交差点に来る。角地には和食のファミレス「かるた」がある。交差点を渡り更に進むと道は右へS字状にカーブする下り坂となる。坂は馬坂と言う。馬坂を下りきった所に不老川に架かる新田橋がある。元弘の変での新田義貞の鎌倉攻めの折、ここよりすぐ南の小手指原で幕府北条軍と激戦をしたことからこの名が付けられたのであろう。
106-5.jpg 太平記によれば、元弘3年(1333)5月8日、新田義貞は鎌倉の北条高時を攻めるため、群馬県新田郡新田町生品明神で旗揚げし、10日には入間川の北岸に到達した。一方鎌倉の北条方では新田方を迎え撃つため桜田貞国を将として鎌倉街道を北進し、5月11日両軍は小手指原で激しく戦った。しかし勝敗は決せず新田方は入間川へ、北条方は久米川に退いた。翌12日新田方は先制攻撃をかけて久米川の陣を攻め立てたので北条方は敗れて府中の分倍河原に退いた。そして15日新田方が府中に押し寄せたところ、北条方には援軍が来ていたので新田勢は敗れて狭山市堀兼まで退き陣を立て直した。そして16日新田方は再び分倍河原の合戦で勝利を得、18日には藤沢市村岡で戦い、22日ついに新田方は鎌倉を攻め落とした。小手指原古戦場の白旗塚はそのとき義貞が源氏の白旗を立てた所という。
106-6.jpg 新田橋を後にすると県道8号線との交差点に来る。秩父道はそのまま直進するのであるが、県道沿いに右へ入ればすぐ新田義貞が鎌倉攻めの折に戦勝祈願したという下藤沢の熊野神社があるので立ち寄る。こじんまりとした神社を2つの鳥居をくぐって参道を進むと正面に社殿がある。境内には樹齢約600年という御神木の大杉がある。伝承によれば下藤沢熊野神社は日本武尊が東征の折、武蔵野で飲み水に苦しんでいた時、神様が現れて笛と太鼓で尊を当地の清水の湧き出る所に導き、尊の兵士達を救った。尊は大いに感謝しその神様を祀ったのが始まりという。祭神は伊弉冉、伊弉諾、素戔嗚尊などである。時代は下って鎌倉時代末期の元弘3年(1333)、新田義貞が鎌倉攻めで、下藤沢明の沢に着陣し当社に戦勝祈願をしたところ、南方から1羽の烏が飛来し、義貞の旗の上にとまった。烏は紀州(和歌山県)の熊野大社の飛竜の神の助けであると喜び大いに士気があがり、ついに鎌倉幕府を滅ぼして建武中興が実現した。義貞は帰途立ち寄り感謝のしるしに当社を修造し飛竜神社を建立した。大杉はその頃植えられたものと伝える。その後江戸時代の初めに飛竜神社は東方約300mの現在地に移り、下藤沢の鎮守熊野神社となったという。
元の交差点に戻り秩父道に復帰する。道なりにただひたすら進み東藤沢に入ると、道は緩やかに右方向にカーブし、やがて左から西武池袋線が接近し並走するようになるとサンロード商店街の道に変貌する。古代官道の伊利麻路とはこの辺りで合流しているのであろうか。今回の旅の終着点狭山ヶ丘駅はもうすぐだ。(完)


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