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武州砂川天主堂 №20 [文芸美術の森]

第六章 明治七年・八年・九年 2

         作家  鈴木茂夫 

十一月二十日、武州・砂川村。
 寿貞は朝食を終えると、すぐに旅館・千年屋を出た。築地から祝田へ出る。旧仙台藩の上屋敷は官庁に使用されているのか、門前には官服の人物が張り番をしていた。半蔵門で左折、西谷大木戸から新宿を経て甲州街道へ。鍋屋横町を過ぎて大法寺で五日市街道に入る。これから1本道だ。高井戸にさしかかると道はしばらく七曲がりとなる。後は境、小金井、国分寺と、けやき並木をひたすら歩く。
 午後三時過ぎ、砂川村に到着。
 村人に教えられた源五右衛門の屋敷は一町歩(一ヘクタール)はある。雑木林、竹藪、菜園、庭園をめぐらした敷地に藁葺き屋根の母屋砂川家の玄関先に立った。
 「お頼み申します」
 寿貞の声に、
 「どなたかな」
源五右衛門が姿を見せた。互いに見つめ合う。
 「もしや、あなたは斉藤先生からご紹介の竹内さんではないですか」
寿貞は、頭を下げた。
 「竹内寿員であります。お初にお目にかかります」
 「斉藤先生から手紙は、頂戴しております。よく遠路はるばるおみえになられた。何せ、われらは練兵館の門人同士ではありませんか。お上がり下さい」
 源五右衛門は、いそいそと座敷へ招き入れた。
 「あなたは、私より少し後で、練兵館に入られたようですな。道場の激しい稽古は懐かしい。あなたも、『突き』に励まれたんでしょうな」
 「はい、その突きの技に支えられて戊辰の際生き延びられました。ありがたいことです」
 「竹内さん、私ども百姓家では、小昼時のお客には、うどんでおもてなしします。とりあえず召し上がって下さい」
 妻女が運んできた膳には温かいうどんが湯気を立てていた。そのほどよい温もりが身にしみて、寿貞は母の顔を思い浮かべた。
 「砂川さん、これは美味です。思わず故郷仙台のわが家を偲びました」
 「竹内さん、あなたのご事情は、斉藤先生からの書面で、あらかた承知しております。あなたはこれからどうする、あるいはどうしたいとお考えですか」
 「私は武士の家に武士の子として生まれ、武士として育ちました。そして武士として働きました。それが武士の正義だと信じてのことです。その結果は武士として獄につながれました。獄にある間、私は考えました。武士とは何であるのかということです。仙台藩の武士として藩の命令に従い、戦に出て戦いました。その戦に敗れた時、私は仙台藩の獄につながれたのです。獄につながれたのは、戦に敗れたからです。もし勝っていれば、獄につながれることはなかったでしょう。藩は勇敢に戦った武士を敗戦により、獄につないだのです。藩が生き延びるためです。武士とは、藩の都合でどうにでもなる使い捨ての道具に過ぎなかったという思いがあります。しかし、私は武士の心を捨て去ることができないのです。武士とは、何か大きなものに仕え、そのもののために、全力をつくすものです。
藩がだめなら、何か新しいものの下で、働きたいと思います。しかし、私は賊軍の一員であるとされ受け入れてもらえるあてはありません。東京へ出てからは、カトリック教会のお世話になっておりました。ところが、この教会を新たに建て替えるというので、居場所がなくなったのです」
 「竹内さん、ご苦労なことでしたな。私は一介の百姓ですから、新時代の勤め先をご紹介することもできません。でありますから、まわりくどい話はなしにして、私がお手伝いさして頂けることを申します。私は、目下、村の子どものしつけにと塾を開いている。小学校はできたんだが、その学校へ行きたくとも行けねえ家がある。月謝を払えねえ家もある。月謝を払えねえんです。これをほっとくわけにはいかねえ。無料の塾を開いたんです。ちょうど、うちには、玉川上水に船を走らせていた時に、船頭や船大工が寝泊まりしていた別棟がある。ここを教場にしたんだが、適当な先生がいなくて困っていたんです。ここの塾長をやって欲しい。そうなりや、わずかだが、小遣いも差し上げられる。こんなところでどうだろうね。引き受けてもらえますか」
 「願ったり叶ったりのありがたいお話です。ぜひ、やらせて↑さい。それに人手が足りなければ、私のおりました教会には、良き若者が何人もおります」
 「竹内さん、あなたが推薦する人物なら、誰でも、入れ替わりでも結構です。教場はすぐ近くの菩提寺・流泉寺(りゅうせんじ)となります」               
別棟、蔵などを配置してある。
 「私は獄から解放されて、城下の村で寺子屋を開き、僅かながらも生活の糧(かて)を得ておりました。子どもたちとの関わり方については、経験があります」
 「竹内さん、私の生活の信条は、経世済民の一語に尽きます。昔からの名主として村人の生活の向上をどう図るかが課題です。百姓は田畑に縛りつけられている。田畑がなければ作物はできないからです。そして百姓の上には、いつも誰かがⅠにいて年貢を取り立てる。徳川から天皇に替わっても事情は同じです。その百姓の生活を良くするためには、作物が良い値で売れるか、高値で売れる作物を作ることです。そこをどうすれば、そうなるかを考えて、取りまとめるのが名主の仕事です。一時期、村の中を走る玉川上水に舟を浮かべて、農作物を東京まで安直に運べるようにしたこともありました。人それぞれに、さまざまな生き方があります。こんな百姓の生活もじっくり眺めて下さいよ」

十一月二十二日日曜日、築地聖ヨゼフ教会
 木造の教会が完成。献堂式のミサが行われた。マラン師はこの教会の主任司祭となった。

明治八年三月五日金曜日、横須賀造船所。
 春雨が造船所を包んでいる。きょうは初めて建造した船の進水式の当日だ。造船所の奥手に紅白の幔幕(まんまく)をかけた舞台が設けられている。その中央に坐るのは明治天白薫。その後ろに進水式を統括する海軍中将川村純義、それを囲んで部下の幕僚、フランス人などの技術関係者数十人が並ぶ。一段低いところに海軍軍楽隊が整列していた。
 船を取り巻いて、大勢の作業員、見物衆がみまもっている。
 黒塗りの船体が船台に載っている。排水量八百九十七トン、長さ六十一メートル、幅九・三メートル、二年余の歳月をかけて生まれた鉄鋼艦だ。
 川村中将が明治天皇に一礼した後、演壇に進み手にした書面を開いた。
 「本艦を『清輝(せいき)』と命名する」
 つづいて川村中将は銀製の斧を執り、船を支えていた綱を切った。船首に日本酒が注がれる。
 海軍軍楽隊が祝賀の奏楽を開始。
 清輝は船尾から船台を滑って海水面に浮いた。船は命あるもののように静かに揺れている。
 見物人に交じってジェルマンも拍手した。この二年間、船の建造が進んでいくのを眺めていたからだ。船が形を整えていくのと、自分の日本語学習の進み具合が重なり合っていた。
 進水式は終わった。人びとは散っていく。
 ヴァランタン技師長がジェルマンに声を掛けてきた。
 「神父さん、ようやく船が浮きました。これから海で帆柱を立てたり、船室の取り付け工事がはじまります。私はそれらを片付けると故国へ帰ります。船が浮いた喜びと家族に会える期待とで、心が浮き立っています」
 「技師長、それはいいですね。私もあなたにお知らせすることがあります。私は横濱の聖心教会でお勤めを担当することになりました。明後七日の日曜礼拝でミサを行った後、横濱の教会にまいります」
 「神父さん、それはいい。あなたは日本人への伝道を強く望んでいたんですものね。しかし、私は、日曜礼拝であなたの説教を楽しみにしていたんですよ。心が慰められていました。どうか新しい担当者として立派にやり遂げて下さい」 

『武州砂川天主堂』 同時代社


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