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海の見る夢 №48 [雑木林の四季]

     海の見る夢
        ―ペール・ギュントの朝~グリーグー
                澁澤京子

  ~神をとらえようとすればするほど、神はあなたから遠ざかる~『シレジウス瞑想詩集』

 子供のころ、よく晴れた気持ちのいい朝、あるいは嵐の去ったあとの陽ざしの明るさを見るとグリーグの「ペール・ギュントの朝」が頭の中で自動的に鳴りだした。人形ごっこをする時も、この曲を朝の雰囲気を盛り上げる音楽として口ずさんでから、人形に「おはよう!」と挨拶させたものだ。おそらく、ディズニーやテレビで見るアメリカ製の漫画では嵐のあとや朝のシーンでよく使われる音楽だったのだ。ペール・ギュントのお話は子供向けに書かれた本が家にあって、夢中になって読んだ。ご存じのように「ペール・ギュント」は貞淑な妻ソルヴェイグを置いたまま、あちこち寄り道をして成功して有頂天になったり、どん底に落ちたりして(子供向けの本なのでペール・ギュントの色事については詳しく書かれてなかったが)なかなか家に戻らない男の話。忍耐強く、ひたすら家でペール・ギュントを待ち続ける優しいソルヴェイグ。(ソルヴェイグの哀しい歌がすごく好きだった)ペール・ギュントがやっと家に戻った時、ソルヴェイグはすでにおばあさん・・ぺール・ギュントは白髪のソルヴェイグに抱かれて息を引き取る・・子供心に、「最初から家に戻ればよかったのに・・」とやきもきしながら読んだものだ。しかし、そういう自分が余計な事をしては横道にそれて失敗したり迷ったりする愚か者であることに気が付いたのは、大人になってから・・「なぜ、ペール・ギュントは寄り道ばかりするんだろう?」と思った子供の私には、自分というものが、いや人間というものがまだよくわかっていなかったのだ・・

SF映画『ソイレント・グリーン』で、この曲が使われていたので思い出したのだが、アマゾンでこの映画を観た。(昔、評判になった映画らしい)なんと設定された未来は2022年。人口増加と自然破壊で食糧難に陥り、失業者の群れが街にあふれ、人々は大豆を加工した、ファストフードのような簡単な人工食で餓えをしのいでいる・・貧富の格差は拡大、資本を持った大企業が圧倒的に力を持ち,ほんの一握りの富裕層だけが恵まれた生活をしている。大気汚染で人々はマスクをかけ、地球温暖化によるすごい猛暑が連日連夜続く。大多数の失業者は暑さをしのぐため路上で寝ているが、富裕層は警備の完全な高級マンションに住み、クーラーが効いた部屋でコンピューターゲームなどをして遊んでいる。(そのゲームが懐かしいインベーダーゲームなのと、インテリアや女の人のファッションと髪型が70年代なのを除けば)結構、今に通用する映画なのである。AIに管理された社会で女の人は「家具」と呼ばれている。女はおとなしく家に所属するものという徹底的な女性差別。(高級マンションになればなるほど、美人の「家具」がついているらしい)暴力事件、暴動は毎日起こり、主人公は刑事(若きチャールトン・ヘストン)。うだるような猛暑と殺伐とした街の風景。自然は破壊されてほとんど残っていない。老人になると、安楽死を提供する施設がある。(志願して申し込むシステム)安楽死する寸前に、自分の好きな音楽とともにかつての地球の美しい映像が流れる・・・手作りの料理などは富豪しか口にできない超贅沢品となっている世界で、主人公の刑事(すごい猛暑なのになぜか長袖のジャケットをよく着ている)は人工食を提供する巨大企業の秘密、ソイレント・グリーンという高級食の素材を暴こうとするのだが・・(素材がなんであるのか・・勘の鋭い方はもう気が付かれたかもしれない)

この映画はアレゴリーなのである。人が人として扱われない社会、人権のない格差社会、弱者(の労働)が食い物にされるところは昨今のブラック企業を連想するし、昔ながらの男尊女卑により、女性が「家具」と呼ばれている設定は保守派の道徳(例えば、伝統的家族重視、女性蔑視の政党・新興宗教とか)に対するパロディになるだろう。本も新聞もととっくに過去の遺物となり、今や骨董となった図書室はひっそりとして老人のたまり場となっている。読書による(考える)という行為は懐疑精神を生む余計なものであり、芸術は単なる暇つぶしとなる。AI管理により、人々は思考力を奪われ支配され・・だいたい、人々は常に餓えているため、思考しなくなっている・・人々が必死になって求める食べ物を(お金)に置き換えれば、新自由主義経済に対する風刺にもなるだろう・・富裕層以外の庶民がみな同じものを食べ、似たような質素な服装をしているのは、近未来の全体主義社会に対するパロディか?(富豪や高級マンションの「家具」はおしゃれをしている)主人公は殺された富豪の美人「家具」と仲良くなるが、もちろん、恋愛という非合理的なものはとっくになくなっている世界・・芸術や宗教がなくなると世界はどうなるか、そこに現れるのは「ソイレント・グリーン」の殺伐とした光景なのかもしれない。

国家の虎の威を借りた人間が、今度はAIに依存しはじめるんじゃないかと思うと暗たんとした気持ちになるが・・(ちなみに、チャットGPTに、日本の核武装についてどう思うか質問したところ、「私は機械なのでよくわかりません‥」という、そつのない答えが返ってきました。)人間よりも遙かに優秀なAIに支配されたほうが世の中効率的なのかもしれないが、他人の書いた原稿をロボットのように棒読みするのは、一部の政治家だけにとどめてほしいものだ・・しかし・・AIに仕事を奪われ、人々はAIに管理されて考えることをやめ、街は失業者であふれ・・「ソイレント・グリーン」のディストピアが実現したらまさに悪夢だろう・・

最近、人身事故のニュースが多い。自殺の増加は、決して経済格差とか貧困だけの問題じゃないだろう・・個人の自由をベースとする新自由主義経済。しかし、新自由主義経済が日本にもたらしたのはバラバラの個人、そして他人に冷淡で無関心な人々、かと思うとその反対に三流週刊誌のように、他人の私生活を重箱の隅をつつくように詮索したがる日本人じゃないだろうか・・昔、『わらの犬』を観たとき(舞台はアメリカ南部。村八分、イジメ、リンチ、レイプ、暴力事件などの頻繁に起こる閉鎖的な田舎町で、ひ弱なインテリがたった一人で村人と闘う話)世の中には話の通じない人っているんだろうなと思ったが、今の日本のひどいイジメのニュースなどを見ると、日本にも「わらの犬」に出てくるような、粗野な人間が増加したとしか思えないのだ。

そうした精神的な貧しさは「~すれば~幸福になる」式の安易な自己啓発やスピリチュアルでは回復できないだろう。むしろまともな宗教は「~すれば~幸福になる」のギブアンドテイクがまったく通用しないところからはじまるのである。ヨブ記にあるように、どん底の状況にいても、何の見返りがなくとも善良で誠実あることが真の善良さであり、人間の高潔さなのではないだろうか。

「ペール・ギュント」によく似た話に、聖書の「放蕩息子の帰還」がある。失敗してボロボロになって帰ってきた放蕩息子を父親が歓待していると「道をはずれた人間をそんなに歓待するなんて・・」と父親に文句を言う真面目なお兄さんが登場する。このお兄さんは、失敗した弟を軽蔑している。軽蔑している弟が大切にされているので腹を立てたのである。自身の内面の真実と向かい合うよりも、世間の評価のほうが大切だと、つい、自他を比べてしまいがちだが、そうするとこの兄やパリサイ人のように、外側だけきれいにすればいいという偽善者になってしまい、なかなか内面と向かい合えなくなるのである・・滑ったり転んだりしてどん底にいるときに、はじめて、自分がどういうものであるかわかることがある。はじめて自身の内面と向かい合うのだ・・

そうした経験がなくとも、人のどうしようもなさって、わかる人とわからない人にきっぱりと分かれる。わかる人は(思いやり)がある人が多い。自分の愚かさ、人のしょうもなさに気が付かせてくれるものに、恋愛や文学、芸術、そして宗教がある。そうしたものに触れなければ、外面だけよければそれで良しとする、俗っぽい人間になってしまうだろう・・

また「ペール・ギュント」は、幸福は実は一番身近なところにあった、という「青い鳥」の話の構造にも似ている。いくら外側に探し求めても、自分の内面に向かわない限り、決して幸福を見つけることはできない。自分を超えようとしなければ青い鳥は見つからないし、ソルヴェイグにも再び会えないのである・・本当に大切なことは「~すれば~なる」のようなマニュアルではなかなか見つけられない。それは夜の国で捕まえた光輝く青い鳥が、捕まえたとたんにみるみる黒ずんで死んでしまうような、捕まえたと思ったらたちまち過去になってしまう「時間」のような不思議なもので、追いかけようとか何も求めないときに不意に向こうから訪れるのである。ペール・ギュントは死の直前に、やっとソルヴェイグの元に帰ることができたのだ。

年取ると、子供の頃の、全身の細胞がみずみずしく蘇るような「ペール・ギュントの朝」を迎えることはめったになくなる。それと同時に、人生には自分の意志ではどうにもならないことが起こることにも気が付く。カフカの『城』、見えているのになかなか到着できない『城』のように、わかっていてもなかなか思うようにならないのが人生なのかもしれない。しかし、はかなく消える幸福のように、不幸も苦しみもいつかは暗雲が晴れて過ぎ去る。滑ったり転んだりして必死でもがいているうちにいつの間にか浮上していることもあるのであり、明けない朝はない。そして、自分が黄金色の陽射しの中にいたことに気が付くのだ。それは子供の頃とは違う、もっと深い歓びを伴った「ペール・ギュントの朝」なのであり、実はつらい経験や苦労の中に、飛び切りの宝物が隠されていることに気が付くのは、さまざまな苦労を経てから・・そうすると、年を取ることも苦労することも、そんなに悪くはないなと思うのである。


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