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住宅団地 記憶と再生 №8 [雑木林の四季]

II フランクフルト・アム・マイン
-エルンスト・マイと「ダス・ノイエ・フランクフルト」 2

     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 翌2011年10月、たまたまフランクフルトの建築博物館で「エルンスト・マイ回顧展」に出あった。ここで「フランクフルト・キッチン」を体験でき、郁市計画プロジェクト「ダス・ノイエ・フランクフルト(1925-30年)」の全容が展示されていた。会場で入手した記念出版物『エルンスト・マイ(1886-1970年)』Ernst May 1886-1970から団地の概要を記しておこう。

〇建築主‥ABG、ミートハイムAG(のちガルテンシュタットAG)
〇総合計画:エルンスト・マイ、ヘルベルト・ベーム、ヴオルフガング・バンガート
〇建築:エルンスト・マイ、カール・ヘルマン・ルドルフ、カール・ブ ラットナー(ハイデンフェルト)、コットロープ・シャオブ(リンクマオアー)、フランツ・シュスター(バードリアン通り20~44)、マルテイン・エルゼサーとヴイルヘルム・シュツテ(学校)、マルガレーテ・シュツテ=リホツキー
(貸し菜園の小屋)。屋外設計‥レベレヒト・ミッゲ
〇総戸数1,182戸(計画1,220戸)の内訳は、長屋式のl世帯用2階建てテラス住宅581戸、2軒連続住宅25/50戸、3~5階建てアパート551戸、ほかに店舗10、小学校1、幼稚園と教会は実現せず。

エルンスト・マイと「ダス・ノイ工・フランクフルト」
 レーマーシュタット団地は1927~29年に建設された。フランクフルト市長は社会民主党の支援をうけたルードヴィヒ・ラントマン(在任1924~33年)。かれは、ドイツを南北に縦断するアウトバーン、フランクフルト国際空港、大住宅団地の建設計画に大きな功績をはたした。かれに請われ、ブレスラウ(ポーランド)から生地にもどって1925年に39歳で都市建設局長に就任したエルンスト・マイは、ヘルベルト・ベーム、ウオルフガング・ハンガートとともにマスタープランの作成にとりかかった。これには、さきにあげた建築家たちが参加し、緑地設計にレベレヒトミッゲ、台所のデザインには、ウィーンから呼びよせたマルガレーテ・シュッテ=リホツキーが協力している。
 ドイツが第1次大戦に敗れたのが1918年、29年には大恐慌、33年にヒトラーが政権奪取するまでの短いヴァイマル期のなかで、1924~30年は「相対的安定期」といわれる。大都市は流入してくる労働者の住宅難対策にも迫られていた。マイはまさにこの時期、建設局長として大いに力を発揮した。1924年に家賃税が導入されて社会住宅への公的助成制度がはじまり、1926~32年にフランクフルトに大小19の団地、10,459戸を建設した。かれは進歩的な強力スタッフをあつめ、この追いつめられた困難をテコに住宅建設、都市計画のあり方に革新をもたらした。きびしい財政下で労働者向け住宅を大量に建設する。当然に、地価の安い郊外に低コストで大量建設する要請にこたえつつ、自然との融合、機能美と合理性を迫ってモダニズム実現に情熱をもやした。その背景には、ヴァイマル期におこった新しい建築運動「ノイエス・パウエン」の思想・様式があり、この潮流をフランクフルトの住宅建設において実現させるプロジェクト「ダス・ノイエ・フランクフルト」を主導したのがエルンスト・マイであった。
 マイは25歳の夏ロンドンにわたり、数か月だがレッチワースのプロジェクトに参加して田園都市構想を実地に学んでいる。その影響もあってかれの仕宅理念は「光と風と太陽」、居間と庭の一体を居住空間ととらえ、さきに見たように、庭(菜園)つき低層の戸別長屋住棟を描いていた。この理念は住宅建設の合理化をはたしてこそ実現できる。建設コストの引き下げと質の高い居住機能の創出は、住宅の徹底的な規格化・量産化によって可能であり、その典型が「フランクフルト・キッチンーといえよう。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂



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