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多摩のむかし道と伝説の旅 №105 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

         多摩のむかし道と伝説の旅(第25話)
           -武蔵国分寺の瓦が来た道-2
                原田環爾

 龍圓寺を後にして坂道の車道を進み、二つ目の信号で左の住宅街に入る街路を採る。街路に入ってくの字に折れると大きな調節池があり、その傍らに新久のかま跡公園がある。丁度先に訪ねた龍圓寺の裏手に位置する。ここは東金子窯跡群の一つ新久窯跡と呼ばれる古代の遺跡で、9世紀中頃に再建された武蔵国分寺の七重塔に用いられたとされる瓦を焼いた窯跡である。すなわち8世紀前半、聖武天皇の勅願によって建立された武蔵国分寺の七重塔105-1.jpgは、承和2年(835)の落雷によって消失してしまった。そのため、前男衾郡(寄居町)大領壬生吉志福正が同塔再建を願い出て、これが許された。その時再建に要する造瓦の中心となったのが、この新久窯跡であるとされている。当時の窯は丘陵の緩斜面を利用した登り窯である。園内の窯跡の前の土手下に小さな池が2つあり、かつては雑草や蒲の穂で生い茂っていたが、今は綺麗に整備されている。
 かま跡公園を後にして再び北へ向かう上り坂の車道に入る。車道は大きくS字状にカーブする。途中右手へ入る急坂の分岐道を採ると、そこは新久八坂神社と浅間神社の境内がある。以前は鬱蒼とする鎮守の森であったが、今はばっさり伐採され、神社も平成16年再建されて真新しくなっている。伐採されてすっかり見通しのよくなった境内からは丘陵北側の風景を一望することができる。どうやらこの辺りが加治丘陵の最高地点のようだ。新久八坂神社105-2.jpgの創立年代は不詳である。先の龍圓寺の表鬼門除けとしてこの地に祭祀されている。元は牛頭天王と称していたが、明治維新の神仏分離令で八坂神社と改称した。明治5年に村社となり、本殿、拝殿を改築したが、老朽化により平成16年改築竣工した。
 なお新久八坂神社付近を縫う坂道をかつて金子坂と称していた。鎌倉武士の金子十郎家忠が仏子に住んでいた弟の親範(チカノリ)の館に向かう時に通ったことからその名があると伝えられている。
 神社を後にすると右へ向かう下り坂となり、下り降りると小さな商店街のある車道に出る。緩やかな坂道を下って商店街を抜けると、そこに八津池公園がある。ここも谷津池窯跡のある史跡公園だ。園内に105-3.jpgは大きな八津池があり、周囲にはベンチもあって小休止するには丁度いい所だ。谷津池窯跡は武蔵国分寺に使用された瓦などを焼いた窯跡6基と瓦工房跡、竪穴各一からなるという。天平13年(741)に聖武天皇は仏教によって鎮護国家の理想を達成するため国ごとに国分寺を建立する詔勅を発し、武蔵国にも国分寺、国分尼寺が創建された。創建以降に用いられた瓦はおもに南多摩、南比企、東金子などの窯群で焼成されたが、なかでも谷津池、新久、八坂前を中心とした加治丘陵の東金子窯群は、国分寺に近かったので、長期間にわたって瓦の製造焼成がなされたそうだ。加治丘陵の斜面が登窯に適し、燃料や良質の 粘土が豊富であったためと言われている。
105-4.jpg 八津池の東の道を南へ向かう。小さな食事処を左にやり、八津池東公園の角地に来ると右へ分岐する小路を採る。程なく小谷田氷川神社の前に来る。文治4年(1188)足立郡高鼻村(元大宮市)の氷川神社から分社したという。本殿は棟札から寛永21年(1644)に建てられたものを明和5年(1768)に再建されたという。
氷川神社から先は急な下り坂だ。下り切るとコンビニのある五叉路に出る。そのまままっすぐ突き進むと、前方には鎮守の森らしきものが見える。緩やかな坂道を上って、上りきった所で再び金子道に出会う。武蔵国分寺への瓦の搬送路だ。左折して金子道に入るとすぐ沿道左に先に見た鎮守の森の中野原稲荷神社がある。なんと赤い鳥居が32、石の鳥居が一つ並ぶ見事なお稲荷さんで入間市景観50選の一つであるという。由緒書では聖武天皇の御代105-5.jpg(725年頃)京都伏見稲荷から分霊された御神体を祀ったものという。ということは武蔵国分寺創建の頃は既にあった稲荷であり、瓦はこの稲荷を左に見て運ばれたことであろう。
 小谷田稲荷橋という名の陸橋で再び圏央道を渡ると広々とした景観の中を走る大きな国道299号線との交差点に出る。交差点の北東角地には山田うどんがある。国道を渡り山田うどんを左にやり、畑の広がるのどかな道を進むとはやがて高倉小学校の前に来る。更に道なりに進むと道は次第に細くなり、やがて高倉公民館で丁字路にぶつかり車道に出る。左折して車道に入ると程なく長い下り坂に差し掛かる。下り始めるとすぐ沿道右に曹洞宗光昌山高倉寺がある。重要文化財指105-6.jpg定の高倉観音堂で有名な寺である。入口は右折道に入ったところに山門がある。高倉寺は天正年間(1570年代)の初めに建立された。開山は飯能市の能仁寺第三世材室天良禅師である。国指定重要文化財の観音堂はもと飯能市白子の長念寺に建てられてあったものを、延享元年(1744)高倉寺の第五世白翁亮清がもらいうけ、修理を加え移築したもので、創建は室町時代初期と推定されている。
 この先、金子道は先の長い坂道を下って秩父道に入り。東へ入間市駅の報告に向かうのであるが、ここではショートパスして高倉寺の前ののどかな小道を東道なりに進むことにする。路傍に百番供養塔が1基ぽつんと立っている。するとそこはもう西武池袋線に接する高い崖の上になっている。崖の端からは入間市駅の界隈を一望の下に望見することが出来る。細い急坂の小道を下ると、線路横の国道16号線のガード下にでる。ガードをくぐり、狭い街路の中を進んで河村ランドリーというクリーニング屋の角を左折し、霞川に架かる緑の新霞橋を渡り、細い土手の階段を上がると入間市駅の西側を走る秩父道(国道463号)に出る。ちなみにこの道はかつての日光脇往還とも重なる。また鎌倉道の枝道とも言われている。
105-7.jpg これより秩父道を辿って一路入間藤沢へ向かう。道は緩やかな上り坂で、町屋坂とも黒須坂とも言う。右に「料亭魚いち」を見ながら坂道を南へ進むと、続いて左に丸広百貨店の前に来る。ちなみに丸広百貨店の裏に回れば、「故きを温める公園」という一風変わった名称の小公園がある。「故きを温める公園」はビルの谷間の樹木で覆われた小空間に、かつての埼玉県入間郡武蔵町立豊岡小学校の石の門柱が移設保存されている。ベンチもあり一休みするには絶好の空間になっている。
 やがて入間市駅前から伸びてきた県道226号線との合流点に来る。合流点の上は大きな歩道橋が張り巡らされていて圧迫感が感じられる。合流点は一見四差路に見えるが五差路である。道なりに南へ進む太い道106-9.jpg105-8.jpgは町屋通りであり、かつて日光勤番の千人同心の往還路として栄えた日光脇往還の扇町屋の宿場通りである。一方国分寺瓦を運んだ秩父道は合流点を左に分岐するやや狭い道だ。分岐点の南東角地に享和2年(1802)造立の道祖神の道標と志茂町子育地蔵尊の堂宇があるのが目印だ。交差点を渡って道祖神の前に立つと北東へ入るもう一本の分岐道が確認できるがこの道は元は町屋通りから分岐していた川越道である。道祖神は元は今より少し南西の日光脇往還と川越道の分岐点(扇町屋下町)に立っていたという。道標には、正面に「道祖神」、右面に「従是 入間川・かわ越道」、 左面に「従是 まつ山・日こう道」、裏面に「武州扇町屋宿 願主是休 享和二戌歳正月吉日」と刻まれている。なおまつ山とは東松山を指していると思われる。(この項つづく)


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