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海の見る夢 №47 [雑木林の四季]

             海の見る夢
        ―レクイエム ~フォーレー
              澁澤京子

 年取ったら、モーツアルトの悲壮感漂う「レクイエム」よりも、フォーレの明るい「レクイエム」のほうが聴いていてしっくりとくるようになってきた。 

映画監督のゴダールが安楽死を望んでスイスで亡くなった。真剣に考えぬいた末の選択だったのだろう。

以前、西部邁さんが、お弟子さんの助けを借りて多摩川で自殺された時、父はまだ寝たきりになる前だった。(西部邁さんは、寝たきりになることを拒否して自殺)「‥ああ、気持ちはとてもわかる・・」と、ニュースを見た父がすごく共感していたのを覚えている、とても他人事と思えなかったのだろう・・母が亡くなってからの長い時間、父は一体どんな気持ちで生きていたのだろう、と時々思う。「・・もしも10代の時に、こんなに長生きするとわかっていたら、僕は絶望して死にたくなったかもしれないな。」と語っていたこともあったし、毎朝起きるたびに「やれやれ‥今日もまた一日が始まるのか・」とよく苦笑していた。足の不自由な父にとって、朝のトイレや洗面に行くことは、私が自分の家から駅に行くぐらい体力を消耗するイベントだったに違いない。よく、足の不自由なお年寄りが横断歩道を渡り切らないうちに信号が青に変わったりするが、もう少し長く待っていられないものだろうか?文句を言っていた父も、寝たきりになってからは一切愚痴をこぼさなくなった・・毎日、訪問してくれる看護婦さん、私や妹の介護する姿を見ていたら、そうした我儘も言えなくなってしまったのだろう・・父は結構、他人に気を使う人だったのだ。

寝たきりになってからは、父をベッドに座らせたり歩かせようと、毎日、妹と二人で努力したが、次第に歩くのを嫌がりベッドに座るだけとなり、そのうちに座ることも拒否するようになり・・そうなると自力で寝返りすら打てなくなるのはあっという間だった。どんなに痩せても男の人の体は重い。妹や看護婦さんと一緒に、汗だくになって父の身体の向きを変えても床ずれはどんどんひどくなってゆく。床ずれ(褥瘡)があんなに悲惨なものだということを、父の介護で初めて知ったし、寝たきりになるということは、何よりも本人にとって一番苦痛なのだ。まるで「健康オタク」のように、健康に気を使っていたから父の内臓は丈夫だったのだろう、そのために寝たきり状態を長引かせてしまったのもなんだか皮肉な話である・・

最初に訪問医が我が家にやってきたときに、延命治療の希望の有無を聞かれたことがあった。「僕は、延命治療は結構ですから・」と余裕で笑って断った父。しかし、その後、延命治療を拒否するということは、呼吸が苦しくなっても呼吸器を借りられないとか、患者にとっては、実に苦しい選択でしかないということを知り、結局、最後は延命治療を無理にお願いしたのであった。

父はよく、医者や看護婦さんから「お嬢さんたちに介護されてお幸せですね。」(お嬢さんという年齢ではないが・・)と言われていた。病院ではなく、自宅で娘二人から看護されるという状況は、端から見たらとても「幸福」に見えたのかもしれない、しかし本当にそうだったのだろうか?母はよく「心臓病で死にたい」と言っていて、本当にその通りに心臓で意識不明のまま、あっという間に亡くなったが、今思うと母のほうが思い通りの幸福な死に方をしたんじゃないかとも思う。自死を選んだ西部邁さんは、寝たきり状態は患者にとって苦行であるということをよくご存じだったのに違いない。もしかして、父は家族のことを考えて「死ぬに死ねなかった」のかもしれないと思うと、何とも言えない気持ちになる・・

高齢化社会で、これから日本でも「安楽死」の是非の問題が出てくるだろう。個人的には、「安楽死」は患者本人の強い意志があれば許可されていいんじゃないかと思っている。しかし、大変難しい問題なので、そんな簡単には決まらないだろう・・安楽死の問題は、本人の意志ではなく他人が介入すれば社会ダーウィニズムの再来になりかねない・・しかし、それ以前に、社会が(役に立つ・たたない)の貧しい物差ししか人に対して持てない限り、社会ダーウィニズムはいつでも起こりうるだろう。遺伝子操作にしろ、「安楽死」にしろ、人為的な「生」のコントロールは神の領域の問題。しかし、いったいどこまでが自然でどこまでが人為か、という線引きは難しい。古代の雨ごいや呪術だって、もともと人間が自分の都合で自然を人為的に操作しようとしたものであるし、現在、平均寿命が延びたのも、医学の進歩に負うところはとても大きいではないか。人間というのは、もともと人為的な環境がないと生きていけないのではないだろうか?

よく「命の大切さ」といわれるが、生きているのはあくまで具体的な個人であり個体なのであり、「安楽死」はその個人の人生の全体、個人の状況や意志にかかわってくるきわめてデリケートな問題なのであって、決して「生死」という抽象的な一般論で論じられるものではない。動物の命も実際は同じだろう。環境問題やあらゆる社会問題、貧困問題さえ解決していないのに、遺伝子操作や安楽死で「生」をコントロールできるかもしれないという奇妙な時代に我々は生きているのである。

新しい優生思想と、人間の都合の「役に立つ・たたない」の物差しで「役に立たない」ものや人が断捨離される殺伐とした世界・・政治などでトップが率先して己の醜聞を隠すために平気で犠牲者を踏みにじる社会では、障碍者施設やホームレスなどの弱者が襲撃されることが起こっても不思議ではない。なんでも競争すればいいものが生まれるという誤った価値観では、目的がただの「勝ち負け」しかない、他人を踏みにじっても平気な人間が量産されるだけで、要するに人の心から遊びとか余裕というものが失われてしまうのだ・・子供にとって大切なのはぼんやりと何もしない時間で、ぼんやりしているようで子供は自分の世界をつくっているのである。

遺伝子にこだわった優生思想のナチスも、人は教育・環境によってどうにでもなると考えていた旧ソ連のやり方も、どちらもデリケートな「個人の人生」や自然の多様性というものを無視した乱暴な考え方であることに変わりはない。そして、遺伝子操作や、安楽死の問題は、それぞれの置かれた状況によってその意味が変わってくるので一概に否定も肯定もできないのだが。

SNSが登場してから、長い文脈から相手の意図を理解しようとするのではなく、ただの言葉尻をとらえて人に絡む、いわゆる(揚げ足取り)をする人がすごく増えたような気がする。要するに世の中全体が漫画のように短絡的で幼稚になったのだ。一つの単語だけで条件反射のように反応したり、あるいは、何かというと原因を追究して悪者探しをするとか。かくいう私もおっちょこちょいなので、自分にとって聞きなれない言葉に引っ掛かると、相手の言わんとする意図を誤解することがよくある(どういう言葉を使うかによって相手の文化や価値観がわかることもあるが)・・一つの言葉にとらわれずに全体の文脈から読み取れば、まったく違うことを相手は言おうとしていることはよくあることだ・・プラトンは一つの言葉を定義するのに、とても丁寧に時間をかけて吟味した。言葉というものが使われる文脈によって、意味が変化するように、生死にかかわる問題もフレキシブルなもので、決して安易に一般化してその是非を断定できるようなものじゃないと思う。安易な断定も粗暴な言葉も思考停止状態から生まれる。そうした社会では偏見やステロタイプの意見がはびこり、次第に人も物事も粗雑に扱われてしまうのではないだろうか?

晩年の父は、よく子供のころの話をしていた。それを話している父の感性はおそらく、10代のころの父とほとんど同じだっただろう。外側は、足も思うように動かずよろよろしている老人の肉体で、中身は10代と同一性を保つ・・おそらく(変わるもの・変わらないもの)という矛盾を同時に持つのが人間というものなのだろう。過去は常に固定された必然となるし、未来は偶然に左右される可変的なものだ。また、なぜ精神は肉体に比べて変わらないように見えるんだろうか?人の心は常に「同一性」を志向するからなのか?あるいは意識は時間そのものの運動だから変わらないように見えるのだろうか?(ちょうど川岸に沿って船と一緒の速度で動くと、船が止まっているようにしか見えないように・・)そしてそれを根底で支えているのは永遠の何かなのだろうか・・

寝たきりだった父のことを考えていると、なぜかチェーホフの『三人姉妹』の最後のセリフか浮かんでくるのである。

「・・やがて時がくれば、どうしてこんなことがあるのか、何のためにこんな苦しみがあるのか、みんなわかるのよ。わからないことは何一つなくなるのよ。でもまだ当分はこうして生きていかなければ・・」『三人姉妹』           

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