SSブログ

海の見る夢 №46 [雑木林の四季]

            海の見る夢
       ―Casta Diva ~Bellini~幸福な子供
                            澁澤京子

~自分自身に沈潜すればするほど、自分を詰まらぬ人間だと思えば思うほど、その人は神に近づく~バラモン
~自分を低くして、子供のようになる人が天の国で一番偉いのだ~『マタイ18-4』

 去年の暮れから、郊外の団地に引っ越してきて住んでいる。集合住宅に住むのは初めてだけど、こんなに快適とは思わなかった。どんなに寒い日でも、家の中に入ると暖房をつけてないのに暖かい。何よりうれしいのは、近所に森のような公園があること。土日、祝日は混むけど、人気のいない平日や雨の日がとてもいい。舗装されていない土の道を、落ち葉を踏みしめながら歩くだけで身体全体が蘇るような気持ちになるし、静かで誰もいないと、まるで自分の庭みたいではないか。繁華街はすぐに疲れてそれほど歩けないけど、こういう土の道はいくらでも疲れないで歩けるのである。

何度、挑戦してもどうしても読み通せない長編小説があって、それはトーマス・マンの『魔の山』と、ゴンチャロフの『オブローモフ』。『オブローモフ』の場合、ミハルコフ監督の『オブローモフの生涯』が素晴らしかったので読み通す気にならないのかもしれない。この映画のロシアの自然と音楽は本当に美しい。音楽担当のアルテミエフは去年の暮に亡くなった。

オブローモフという、怠け者で無能の貧乏貴族の話。甘やかされて育ち、昼まで寝る生活を送り、いまだに下男のイワンに身の回りの世話をしてもらわないと何にもできない無能の人・・この映画を初めて見たとき、オブローモフは私のことじゃないか、と思ったほど、当時、昼まで寝ていた私・・しかも、人はどう生きるか?というより、なぜ生きるか?という哲学的?な思索にふけるところも自分に似ていたのだ・・恋愛の三角関係を描いた点では、漱石の「こころ」のロシア版だろうか。

夏の朝。幼いオブローモフが、目を覚まして、乳母から母親が夕べ帰ってきたことを告げられ喜んで庭に走り出してゆくシーンは、誰もが持っている、子供のころの夏の朝を思い起こさせる。そして、おそらく誰の中にも、一人の幸福な子供が住んでいるのだと思う。子供の時は天使のように愛らしいのに、大人になると今一つ冴えないオブローモフの役を主演のオレグ・タバコフが見事に演じていて、思わず、こういう人ってどこかにいそうだよね・・と思ってしまう。親友のシュトルツ役の俳優も、オルガ役の女優も素晴らしい。オルガ役の、エレーナ・ソロヴェイは知的なロシア美人で、『機械仕掛けのピアノのためも未完成の戯曲』でも好演。監督のミハルコフ好みの女優さんなのだろう。

幼馴染のシュトルツは父親がドイツ人で、ドイツ式にスパルタで厳しく育てられた、やり手のビジネスマン。甘やかされて育って何もできないオブローモフとは何もかも正反対。なのに、二人は無二の親友同士。シュトルツは、怠け者で引きこもりの親友をなんとか社会に出そうと、まず、体重を減らすべく野菜中心のダイエット食に切り替えさせ、社交やビジネスに引っ張り出そうと苦心するが、ことごとくうまくいかない。そもそもオブローモフは社交に興味ないし、誰と知り合いだとか他人の噂話だとかそういう世俗的な会話には全く興味がない。もちろん、ビジネスにも興味はない・・オブローモフが興味あるのは、「人は何のために生きるか」のような哲学にあるからだ。オブローモフは自身の無能を内省しているうちに、そうした高尚な問いに突き当たったのだ。(サウナ風呂での二人の会話はなかなかジンとくる)

そのうちに、シュトルツはオルガにオブローモフの世話を頼み、イギリスに旅立つ。オルガと二人で過ごしているうちに、オルガの示す親密さにすっかり舞い上がってしまい、初めて恋をするオブローモフ。オルガに別れの手紙を書いてから、木陰から手紙を読むオルガの反応を盗み見るとか、やたらと見え透いた行動をとるところが滑稽で子供っぽくて、いかにもオブローモフらしい。やがてシュトルツがイギリスから帰ってくる。シュトルツと、オルガの会話から、オルガと過ごした日々のことはすべてシュトルツに筒抜けに報告されていたことを知り、失恋してショックを受けるオブローモフ。そのため、二人から自転車に誘われてもかたくなに断るが、二人の楽しそうな様子を見ているうちに思わず追いかけ、いつの間にか機嫌よく一緒に野原を駆けてゆくオブローモフは、やはり幸福な子供そのものなのである。子供だから傷ついたプライドの回復も、機嫌が良くなるのも早い。三人が楽しそうに自転車で走るシーンに流れるのが、ベッリーニの「カスタ・ディーヴァ」(~清らかな美よ、私の元に戻っておくれ、初めのころの誠実な愛よ~)

その後、オルガとシュトルツは結婚し、オブローモフはある未亡人と結婚するが早世し、その遺児はシュトルツ夫妻に引き取られた。ラストシーンでは、暗い家の中の冷たい様子でシュトルツ夫妻の関係があまりうまくいってないことが暗示されて映画は終わる。庭を走り回る、オブローモフの遺児は、子供時代のオブローモフにそっくりなのである・・

三角関係だからこそうまくバランスの取れる関係というのがあって、そのうちの一辺が欠ければたちまちバランスが崩れる関係がある。そうした関係には三人がそれぞれ仲の良いことが条件としてあり、漱石の「こころ」もそうした三角関係だろう。オブローモフには一緒にいる人の無邪気さを引き出す力があって、それがシュトルツにもオリガにもうまく働き、オブローモフがいるだけで三人は「幸福な子供」のような無邪気な時間を過ごすことができたのだ・・また、オルガとシュトルツは、オブローモフの面倒を見ることで、二人は疑似両親のような大人の役割を楽しんでいたのだと思う・・夢のように消えてゆく青春の夏の日々。

また、オブローモフと対照的なビジネスマン、シュトルツの効率主義と合理性は、当時のロシアに影響するヨーロッパの近代化を象徴しているのかもしれない。近代化によってロシアから消えてゆく「無能の人」「役立たず」の象徴がオブローモフであり、オブローモフを喪失したシュトルツ夫婦の関係が冷え切ってしまうのも、二人から(幸福な子供)が失われたからだろう・・

社交に出れば無様に粗相してみんなから嘲笑され、ダイエットすれば我慢できずに夜中に肉料理を食べ、自分のダメさ加減を骨の髄までわかっているオブローモフ。わがままではあるが、決して他人を見下すことはせず(その代わり誰とでも正面衝突するが)、怒ってもすぐ機嫌をとりなおすし、人から傷つけられても、相手が楽しそうにしていればつい自分もつられて楽しくなってしまうオブローモフは、やはり幸福な子供なのである。

子供は何でも遊びにしてしまうが、子供にとって大切なのは「今」であり、「~(将来)のために」なんてない。音楽も勉強も本来は楽しむためのものだが、大人にとってそれは教養を深めるものだったり、他人と競争していい大学に入るような、実につまらないものとなってしまうのである・・オブローモフは子供なので競争社会から外れて、「生」そのものを楽しめる人間なのだ。そんなオブローモフの存在の必要性を最もよくわかっているのが、優秀なシュトルツと、知的なオルガなのである。

オブローモフは、自分とは正反対のシュトルツが好きだ、何をやっても優秀なシュトルツに対する劣等感もある。しかし、決して卑屈にならずにあくまで対等な立場でやりとりができるのは、やはりお互いにその人格を尊重しあっている幼馴染の関係であるからだろう。

今の世の中では、特にオブローモフ的な人間は生きにくい状況かもしれない。社会に余裕というものがないからである。勉強というと「努力」「頑張る」という発想しか浮かばず、毎日何か生産的な仕事をしていないと気が済まない人々の住む競争社会。ドブロリューボフは、オブローモフの無気力・周囲に対する無関心をロシア人の特性としているが・・(旧ソ連時代のコルホーズが放置され荒れたままなのを、働き者の中国人農民が次々と買い上げて、着々と生産を伸ばしているという。日本の商社も抜け目なく乗り出そうとしているとか)

オブローモフは自然児なのである。映画全編に出てくるロシアの美しい自然。オブローモフが持っているもの、それは底抜けの明るさと楽天性、そしてプライドにこだわらない人の好さ、そして何よりも、どんな状況でも人生を楽しめる能力ではないだろうか。冒頭で「ママが帰ってきた!」と幼いオブローモフが喜んで走っているシーンがあるが、誰にとっても故郷とは母親であり、周囲を取り巻いていた自然なのかもしれない。

オブローモフのような「幸福な子供」や自然を喪失してしまったのはロシアだけじゃないだろう。

プーチンの時代錯誤のナショナリズムと権威主義。それによってどんなにウクライナの平和な日常や人間関係が、いとも簡単に破壊されていることだろうか・・どこの国であろうと存在するのは、国家という抽象概念なんかではなく、個人だけなのである。

・・・戦争に勝者はいない。そこにあるのは、血、破壊、そしてわたしたち一人ひとりの心の中にできた大きな穴だ・・私は民族で人を定義しない。人を定義するのは民族でなく行動だからだ。多くのロシア人が戦争に反対していることも知っている。今ははっきりとわかる。戦争と人間が別物であるということが。戦争は人間など気にしない。・・『戦争日記』オリガ・グレベンニク

※『オブローモフの生涯より』はyou tubeで全編公開されています(英語字幕版)




nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。