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住宅団地 記憶と再生 №7 [雑木林の四季]

デュースプルク 2
 
        国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

6.デイヒター・フイアテル団地Dichter-Viertel(Schillerstr.,Kurt-Spindler-Str. 47166 Duisburg-Hamborn)

 トラム903の終点ヒュッテンハイムから中央駅をへて40分先のハムボルン区役所前で下車し、5分ほど歩くと、デイヒクー・フイアテル(詩人の街)団地がある。団地の内外は、ゲーテ、レツシング、シラー、クライストなど詩人の名をとった通りが多いから、その名があるのだろう。
 デュースブルク北部は19世紀にはいって人口が急増した。エッセンのクルップとならぶ、デュースブルクのティツセン炭鉱Thyssen-Bergbausが1903年から18年にかけこの地に建設した鉱山労働者住宅がこの団地である。
 十字に仕切ったまっすぐな道路沿いに、2階と、主に3階建ての煉瓦づくり、三角屋根の建物が何棟か一列に並び、四角をなして大きな中庭をかこっている。中庭というより、かなり広い芝生の広場であり、築山や遊具があったりで、子どもの遊び場になり、隅には洗濯干し場もある。夕暮れ近くになって表通りは街路樹がしげり、薄暗くなっていたが、広場に高木は少なく、天空の明るさそのままだった。あちこちに立ち話する女たちの輪、散歩するふたり連れの姿があった。
 規模に大小あり、どの建物もそれぞれ玄関、屋根、窓などのデザイン、色彩に変化をみせ、アールヌーボー様式の装飾もみられる。玄関は道路側ではなく中庭側にあり、入口の戸別ブザーや郵便受けの数から察して12~18戸ユニットの住棟のようだ。ロの字、コの字になった街区が数ブロックつながっている。
 記録によると、団地建設当初も住民にポーランド人、イタリア人、オランダ人などが多かったが、現在は住宅数雄85戸、人口約6,000人、うち外国人は60%、ほとんどがトルコ人移民である。
 団地の各所、進入路わきに「駐車は借家人に限る」の立て看板と駐車スペースがある。街中のせいか車の台数は他にくらべて少ないように思えた。団地を管理するエヴオニク・ヴオーネン社EvonikW)hnenが団地入口にあった。夜近くになっても中で数人働いていた。
 団地のなかに、哲学者カントや詩人名と並んでクルト・シュピンドラーの名を冠した通りがあり、路上には10センチ角の「クルト・シュピンドラー、1904年ここに住む。ナチスに抵抗して逮捕され、1943年強制収容所ヴェザーミュンデで殺された」との「つまずきの石」(ナチ犠牲者をしのぶ金属プレート)が埋めこまれている。第1次大戦前からこの地域は左派勢力が強く、労働運動が盛んで、「スパルタクス団(ドイツ共産党の前身)の巣窟」といわれていた。1920年3月のカップ一揆にたいしては蜂起してヴァイマル共和国をまもり、ナチス支配に抵抗をつづけた。その先頭に立ったのが、鉱夫クルト・シュピンドラーだった。かれはハムボルン初のドイツ共産党の市議会議員となり、反ナチと労働運動を指導した。通りに名を残して、いまに記憶をとどめている。
 1980年代から90年代にかけて、当時の所有主ライン・リツペ・ヴオーネン社Rheain Lippe Wohnenはノルトライン・ヴェストファーレン州およびデュースブルク市の財政支援をうけて団地の大規模な改修と居住者対策にのりだし、空き家の解消と居住の安定をはかった。2005年からは新所有主のエヴオニク社が、市の都市開発部局とともに「西の都市改造」プログラムにもとづき、計画的に団地管理の向上と地域コミュニティの育成を推進してきた。補助金交付期限の2009年後も継続できるよう資金援助をしているという。デイヒター・フイアテル団地も「産業文化ルート」の一つである。

 デュースブルクの中心街にもどり、地下鉄で市役所に行く。石造りの壮大な市役所の眼下に港がひろがる。デュースブルクはドイツの西端、西側でラィン川がルール川と合流し、このドイツ最後の大都市をへてオランダに注ぐ。北海やバルト海に面する北ドイツまでは遠い、ドイツ最大のルール工業地帯はもちろん、ライン川にそって発達をとげがイツ産業にとって、交易、集積、水運の拠点としてデュースブルク港の役割がいかに大きかったか、ヨーロツパ最大の河川港といわれる所以は想像できる。
 わたしが港に着いた時刻は、もう日が沈み、天空と川面だけがわずかに赤く残照をとどめていた。大小の荷船が所狭しと停泊し、遠くに大きなクルーズ船がみえた。港内をつつむ夕闇と、船々のへさきや立ち並ぶクレーンに点滅する灯火、港をめぐる外周路の照明灯のあかり、運河の橋上をはしる電車の光のコントラストが、団地かけめぐりの疲れをいやし、旅情をかきたてた。市役所前とその周辺から30分ほど眺めた港の風景でしかなく、港の全体は知る由もない。この眺めをわたしに選んでくれた駅前案内所のガイドには感
謝したい。
 ルール地方3日間の労働者住宅団地めぐりにはほぼ満足したが、一つだけ心残りがあった。ルール地方からつぎの団地めぐり、ベルリンに行くまえに、長年の夢であった大司教座の町パダーボルンに2泊した。ドイツには20回出てあちこち巡っているが、ルール地方にはこれまで緑がなかった。幸いベルリンにむかう途上なので下車することにした。そのもっと手前、エッセンからそう遠くないところにハーゲンという町があり、山間に「ヴェストファーレン野外博物館」Westhhsches Landesmuseum fur Hardwerk und Technikがある。植物園というより、18世紗ら20世紀はじめまでの家屋、そのなかでの職人の生活、技術や道具、文物をそのままったえる伝承の村といえよう。ここに立ち寄るチャンスをのがしたのは残念であった。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂



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