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武州砂川天主堂 №15 [文芸美術の森]

第五章 明治六年 1

           作歌   鈴木茂夫

二月一一十四日。太政官。
 太政官(内閣)は、各府県宛の布告を発した。

 府県へ布告
 第六十八号
 自今諸布告御発令毎二人民熟知ノ為メ凡三十日間便宜ノ地二於テ令掲示候事 但管下へ布達ノ儀ハ是迄通り可取計従来高札面ノ儀ハ一般熟知ノ事二付 向後取除キ可申事
(じこんしょふこくごはつれいごとにじんみんじゅくちのためおよそさんじゅうにちかんべんぎのちにおいてけいじさせそうろうこと ただしかんかへふたつのぎこれまでとおとりはからうぺくじゅうらいこうさつめんのぎはいっばんじゅくちのことにつきこうごとりのぞぺくもうすこと)

 この布告は、太政官から各府県に出されたのであって、一般国民に開示されたのではない。
 この布告は、さっと読み流したのでは理解しにくい。だが子細に眼を通すと三項目の内容が含まれていることに気づく。
 第一は、政府が地方官庁へ発する布告は、人民に周知徹底を図るため、一二十日間、人民に便宜ノ良い場所に掲示するようにとのこと。第二は、地方官庁所管の告知は、これまで通りの方法でおこなうこと。第三は、これまで掲示してきた高札は、既に人民に「一般熟知」周知徹底しているから、取り払うことにする。
 一見、政府が行う布告7布達の取り扱いに関する通知であるが、ここには重大な内容が秘められている。問題は、「従来高札面」である。これは慶應四年三月十五日に出された五枚の立札・「五棒(ごぼう)の掲示」を意味する。その三番目の立札は、

 定一切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁ナリ若不審ナル者有之ハ其筋之役所へ可申出御褒美可被下事
(きりしたんじやしゅうもんのぎはかたくごせいきんなりもしふしんものこれあらはそのすじのやくしょへもうしでるべくごほうびくださるべきこと)
 慶應四年三月
 太政官

 とある。これを取り除くというのだ。つまり、キリスト教信仰が禁止されているのは、人民に周知徹底しているから必要が無いという理由からだ。キリスト教信仰の自由を認めるから取り払うというのではない。しかし、キリスト教信仰禁止の立札は、消えたのだ。
 日本で最初のキリスト教信仰禁止令が出されたのは、慶長十八年(一六一三)十二月二十三日、それから二百六十年目の解禁である。
 この背景には、明治政府が諸外国と交流を進めようとする上で、国内のキリスト教禁止政策が大きな妨げになっていることがあきらかになったため、致し方なく信仰解禁へと政策の転換を図らざるをえないという状況があったのだ。

二月二十六日、横濱・聖心教会。
 ペチェ神父が息を切らして教会に走り込んできた。うれしそうな表情だ。
「プチジャン司教様、消えてしまったんですよ。本当にそうなんです」
「ペチエ神父、何があったんですか。何が消えたんですか」
 プチジャン司教が静かに問いただす。ペチェ神父の息づかいが少し収まったようだ。
「私は、元町の高札場へよく行くんです。なぜかと言えば、あそこには、五枚の立札があります。司教様もご存じのように、その三番目の札には、キリシタン禁止であると書かれてあります。私はその札がいつになったら取り除かれるのだろうか、早くなくなる日が来れば良いと、始終眺めに行っていたんです。そしたらですね、どうしたことでしょう。昨日、立札はなくなっていました。もしかしたら、間違いかも知れないと思ってきょうも行ったのです。そしたら、やはり立札はありませんでした」
「ペチエ神父、あの五枚の立札を取り払う理由を書いた立札はなかったの」
「そんなものはありませんでした。プチジャン司教様、あの五枚の立札がなくなったということは、キリスト教信仰の禁止が解けたのではないですか。私は、主イエス・キリストを信仰する自由がもた らされたとうれしくなり、走って帰ってきたのです」
「禁止の立札がなくなったことは、自由になったと理解してもいいね。私もそうであって欲しいと思う。しかし、立札が突然消えたのは不思議だ。立札が消えたことは、日本の政府の政策に、何かの変化があったことは間違いないだろう。日本は徳川から天皇に代わっても、キリスト教禁止を受け継いできている。それは基本的な政策の一つです。それが変更になったのなら、はっきりそのことを国民に知らせるべきだ。だから、そこにはもやもやとしたものを感じる。でも、私はあなたが感じたように、キリスト教信仰の禁止は解けたのだと理解して良いと思う。私たちがはじめたラテン学校には、日本人の神学生が七十余人学んでいる。そのことは、政府も承知しているはずだ。しかし、政府はそれについて何も言ってはこない。つまり、黙認しているのだ。私たちは、今こそ積極的に日本人に対する伝道を活発にしよう。日本人のキリスト教信仰が禁止されていようとも、私たちは神の教えをこの国に伝えるために来ているのだから。私たちが日本人に働きかけて、日本の官憲が、それが違法だと干渉してきたら、禁止政策は継続しているのだ。しかし、なんの干渉もしてこないなら、信仰の自由は保障されていることがはっきりする。最近、そのような干渉・圧迫があったという話は聞かない」
 ペチエ神父がプチジャン司教の手を握った。
「司教様、いずれにしても、立札は消えたのです。日本人への伝道に取り組みましょう」

四月半ば、フランス・パリ外国宣教会・大神学院
 日本教区司教プチジアンは、パリ外国宣教会本部宛、一通の電報を打った。     

 永イ迫害ノ時代ハ終ワッタ。コノ国ニ信教ノ自由ガモクラサレタ。今コソ吾(われ)ラノ宣教師ヲ第一陣トシテ十五名ノ派遣ヲ請ウ

 パリの本部は、喜びに沸き立った。付属の大神学院院オズーフ院長は、全校生徒を集めて、電文を数回にわたり読み上げた。そのつど、聖堂に参集した神学生たちは、大きな拍手で応えた。聖母マリア像の前には、修飾灯火が点じられ、期せずして賛美歌の合唱が、大きなうねりとなって堂内に充ちあふれた。
 院長は、壇上から語りかける。
「諸君、きょう、この電報を手にすることができたことは、私たちカトリック信徒の者にとって大きな喜びであります。日本にキリスト教が黄初に伝えられたのは、一五四九年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってであります。ザビエル師の播いた信仰の種子は、芽生え育ち、苗となり、若木となって育ったのであります。多くの大名、青年武士、農民たちの間に、神の御教えは広まり、神学校(セミナリオ)も設立されました。しかし、こうした平安の時は、長くは続かなかったのです。ザビエル師の日本上陸後、三十八年目の一五八七年、豊臣秀吉による宣教師の国外追放、さらに一六一二年、徳川家康は、キリスト教の信仰を禁止しました。弾圧と迫害の冬の季節が訪れたのです。一六三七年から八年にかけて、九州島原の信徒たちが蜂起しましたが、幕府はこれを壊滅しました。その後、一六六〇年代には、お互いを監視する五人組と、仏教寺院が住民の戸籍管理を行ない、キリスト教信徒の取り締まりの制度が確立しました。暴き出されたキリスト者には、拷問と極刑が与えられました。キリスト者は、表面的に、すべて姿を消してしまったのです。一八六八年、日本では、将軍の支配する徳川幕府が倒れ、天皇が統治する新政府が生まれました。この政府は、神社の格式を引き揚げ、天皇を神とする宗教国家の建設を目指しているようです。キリスト教信仰を禁止するという方針を受け継いでいました。しかし、新政府は、西欧諸外国の抗議を受け、キリスト教信仰の自由を保障せざるをえなくなりました。扉は開かれたのです。それに先立って、私たちの仲間は、新政府の禁令にもめげず、神の教えを説き続けてきました。現在、私たちの司祭は、プチジアン師をはじめ十三人、伝道士二百一一十七人、姉妹であるサン・モール会の修道女が六人、およそ一万五千人の信徒がいます。この信徒たちは、二百数十年にわたる厳しい禁令のもとで、信仰の灯を守り抜いてきた人たちです。特に、信徒の集中している長崎地方では、三世紀、七代経てば、司祭がやって来るという日本人伝道士聖バスチャンの予言を信じ続けてきました。今、七代の時を迎え、私たち伴天連が、日本へ渡り、信徒たちの熱い信仰に応えねばなりません。この輝かしい報せを諸君とともに分かち合い、神の栄光を称えたいと思います」
 院長の訓話が終わると、熱列萎感謝の祈りが捧げられた。
 神学生たちは、誰がこの第一陣の選抜にあずかり、信仰の扉の開かれた日本へ派遣されることになるのだろうかと、興奮に包まれていた。

『武州砂川天主堂』 同時代社



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