SSブログ

住宅団地 記憶と再生 №4 [雑木林の四季]

エッセン

     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 10月10日、7時起床、まだ日の出前の薄明、雲ひとつない快晴であった。日曜日のせいか9時というのに人通りはない。
 オーバハウゼンからエッセン中央駅には約15分で着く。駅前の案内所で市街地図をもらい、まずはシナゴーグ(ユダヤ教会)まで歩く。巨大で目にもまばゆく、見学者も自由にはいれた。旅先の街にユダヤ教会があればつとめて人ることにしているが、入場の規制が一般にきびしく、信徒以外は入れなかったり、入れてもユダヤ帽をかぶらされることがある。
 シナゴーグの巨大さといい、さまざまな形の教会の多きといい、この複雑な様相はルール地方の宗教上の特徴なのだろう。炭鉱についで18世紀後半から製鉄業も起こり、労働者を大量に必要とした。ルール地方はオランダ、ベルギ一に接しており、やがては東方の国々からも外国人労働者が流れ込んできた。道行く人びとをながめても、ひときわ出身ルーツの多様さが感じられ、宗教上の色模様も納得できる。シナゴーグの壁面に飾られた縁故者の写真に「刑事コロンボ」がいた。

3.マルガレーテンへーエ団地Margarethenh6he-Siedlung(Steile Str.,Kleiner Markt 45149 Essen-Margarethenh6he)

 シナゴーグに近い市役所の地下駅からUバーンでマルガレーテンへーエにむかい、手前のラオベンヴェークで下車した。線路の両側には、緑ゆたかな木立ちにかこまれて集合住宅がつながり広がる。木立ちの間の曲がりくねった散歩道を入ったところに木組み様式の瀟洒なレストランがあった。木陰のテラスで、まずビールを飲み軽食をとって休息した。身なりをととのえた老紳士と婦人たち、日曜日のせいか若い夫婦、親子づれも多い。察するに、住人はほとんどが中流並みの階層であろう。マルガレーテンへ-エ(マルガレーテの丘)団地が「労働者住宅団地」に分類されていることに違和感をおぼえた。
 エッセンはクルップの町である。クルップ社Krupp AGを大コンツェルンに発展させたフリートリヒ・アルフレート・クルップ(1854-1902年)の死後、妻マルガレーテ(1854-1931年)が1906年、娘ベルクの結婚式を機に慈善事業の一つとして住宅財団を設立し、段丘のある50ヘクタールの土地に「文化としての住宅」「住み心地のいい街」づくりを計画したといわれている。1909年にはじまり28年にかけて935の建物、約3,100戸の住宅が建設された。団地のなかに「田園都市宣言」の看板がたち、公園にはマルガレーテ・クルップの大きな石像がある。
 建築を託されたゲオルク・メツェンドルフのコンセプトは、ブルーノ・タウトやエルンスト・マイに共通する時代精神が色濃く、機能性、快適性と色彩の豊かさを重視し、小家族住宅にも浴室、水洗トイレ、集中暖房などをとりいれる先駆性をみせた。紅葉したツタのからまる木組み構造、急勾配の三角屋根から出窓のみえる2階建て、多くは4戸ユニットの住棟が、それぞれ意匠にバリエーションをみせて建ち並んでいる。窓枠の白と緑、生垣と植樹、草花の色のハーモニーが印象的だった。団地のなかの道路はせまく曲がりくねっている。住棟街区に接して森がつづき、散歩道につうじている。
 当初この団地はクルップ従業員が半数近くを占めていたが、社宅として建てたものではなく一般人にも開かれており、したがって、わたしの見たルール地方の労働者住宅には異例の、団地中央に市民ホールやゲストハウス(現在ホテル)、祭りや市の立つゆったりとした広場が位置し、近くにスーパーマーケットがある。すばらしい住宅地である。
 大企業主が巨費を投じて建設し100年をへた「よく設計された田園都市団地」も、第2次大戦で大部分が破壊されたという。大観模な修復、歴史的な形での復元を要した。1987年には歴史的保護地域に指定された。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。