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夕焼け小焼け №3 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

チェーホフ

           鈴木茂夫

 昭和28年(1953)春、「作家研究」は米川正夫教授が担当し、チェーホフが選ばれた。
 短編集がテキストだ。楽しい授業だった。それから10年が経過している
 昭和38年(1963)の夏。私はモスクワにいた。ノーボデヴイティ修道院の墓地を尋ねた。ゴーゴリやチャイコフスキーはじめ著名な人が眠っている。柵に囲まれてチェーホフの墓はあった。紡錘形の石にチェーホフの名盤が組んである。
 チェーホフの作品が、つぎつぎと頭の中に現れる。私はしばらく墓と向き合っていた。
 アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(1860-1904)は、400を越える短編と『 かもめ 』、『 ワーニャ伯父さん 』、『 三人姉妹 』『 桜の園 』の4大戯曲を残し、44歳で世を去った。ロシア文学の宝であるばかりではなく、世界の人に親しまれている。    
 チェーホフはアゾフ海の港町タガンローグの雑階級の家庭に生まれた。雑階級とは貴族と農民の中間に位置する知識人階層をさす。
 中学を終えるとモスクワ大学の医学部に進んだ。生活費を稼ぐためにアントンシャ・チェホンテの筆名で、ユーモア短編を寄稿し始める。この頃、肺結核を発症。
 24歳でモスクワ大学医学部卒業。医師資格をえてモスクワの自宅で診療をはじめる。患者には喜ばれていた。初めての喀血。結核を発症。
 首都サンクトペテルブルクに滞在。多くの読者の賞賛を受ける。
 チェーホフの作品には筋立てらしいものはない。読者は登場人物の会話の中に主題が潜んでいることを読み取らなければならない。
 チェーホフは30歳(1890)の時、当時、流刑地だったサハリンへ出かけた。現地で3ヶ月にわたり囚人たちの生の生活に触れる。「サハリン島」の執筆にとりかかった。それは精緻なドキュメンタリーとして完成する。
 36歳(1896)の時、サンクトペテルブルグで「かもめ」を上演。不評に終わる。
 41歳(1901)で、モスクワ芸術座の女優オリガ・クニッペルと結婚する。
 44歳(1904)「桜の園」を初演。ドイツのバーデンワイラーで結核のため亡くなった。
 チェーホフの作風は何か。人間の真の生き方とは何かを尋ねる簡潔な文体だ。対象をあるがままに描く。それがチェーホフのリアリズムだ。
 「かもめ」
  青年トレープレフや女優志願の娘ニーナを中心に、19世紀末のインテリゲンチアの苦悩を新しい形式と手法をもって描く。
 「ワーニャ伯父さん」
  主人公のボイニツキー (ワーニャ伯父さん) は,老教授セレブリャコフの領地を守るのを生きがいとしていた。教授の俗物性に失望する。80年代のロシアのインテリゲンチアの挫折が表現されている
 「三人姉妹」
  ロシアの田舎町で、故人になった砲兵旅団長を父とする3人の姉妹オリガ,マーシャ,イリーナと,それを中心として集るインテリゲンチアや軍人たちの生活と人間像を描きながら,帝政ロシア期の生気のない現実とそこから抜け出そうとするあがきなどを、あざやかなせりふ回しなどによる名作。
 「桜の園」
  斜陽貴族のラネーフスカヤ夫人は、桜の園に戻ってくる。しかし莫大な借金を抱え、手放さざるをえない。かつて農奴でいまや裕福な商人になったロパーヒンが、 競売で桜の園を買い取る。
「犬を連れた奥さん」
 保養地ヤルタで、離婚した中年の男と犬を連れた人妻が出会い、恋に落ちて結ばれる。モスクワで二人は忍びあう。離婚するには複雑極まる手続きがいる。二人の愛は世間には認められないのだが。
 米川先生は、こうおっしゃった。「チェーホフは短編の名手です。短編の表現に工夫があります。短い表現で的確に表現しているのです。」
  チェーホフは生涯読めますよ。それは先生の講義の最後の言葉だった。


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