多摩のむかし道と伝説の旅 №89 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
多摩のむかし道と伝説の旅
-神田川水辺の道と伝説を巡る旅-7
原田環爾
新堀橋から西武新宿線の踏切に接する辰巳橋に出て、妙正寺川と分水路の接合点を確認した後、路地を鍵の手に辿って神田川に架かる落合橋に出る。この先水辺の道は消滅するので、南岸の一筋南の路地を採ることにする。小さな宮田橋公園を抜け、東京富士大学を回り込むと、田島橋で再び神田川に復帰する。この先右岸のさかえ通り商店街に入れば、程なく高田馬場駅のあるJR山手線の高架下で早稲田通りに出る。ガードをくぐり抜けるとそこは高田馬場駅前の賑やかな空間だ。すぐ左へ入る街路を採り100mも進むと神田川の神高橋の袂に出る。ここより右岸の川沿いの道を進む。残念ながらしばらくは緑のない味気ない道である。高塚橋、戸田平橋、源水橋を過ぎると川筋は大きく北へ蛇 行し、その蛇行の頂点辺りで新目白通りが走る大きな高田橋に出る。先の高田馬場分水路はこの高田橋の下で神田川に再接続している。つまり妙正寺川の水は今ではここで神田川に合流している。高田橋のすぐ隣は明治通りが走る更に大きな高戸橋だ。高戸橋の橋上から高田橋を振り返れば分水路の合流点がよく観察できる。またこの高戸橋は都電荒川線が走る橋でもある。軌道は明治通りを北側から南下してきて高戸橋を渡ると、直角に折れて新目白通りを東進する。高戸橋を渡り、橋の袂から通りを離れて再び神田川の右岸に入る。ここは通りの裏道といった感じで、樹木で覆われた落ち着いた水辺の道となる。曙橋を過ぎ面影橋まで来ると再び新目白通りに接する。橋の傍らの通りには都電荒川線の面影橋駅があり、昔懐かしい都電の風景を見ることができる。都心に現存する唯一の路線で、三ノ輪橋駅から早稲田駅まで、荒川区、北区、豊島区、新宿区をまたぐ全長12.2km、停留所数は30箇所を約50分で運行している。都電はもとは明治36年の開通した民営の路面電車であったが、明治44年東京市が買い取り市電として開業したことに始まるという。
それにしても面影橋とは何かいわくつきの橋と思われる。橋の南詰の袂に由緒書が立っている。それによれば面影橋は別名姿見の橋ともいい、由来についてはいくつかあるという。ひとつは歌人在原業平が水面に姿を映したためとする説、またひとつは将軍家光がこの辺りで鷹狩をした折に名付けたとする説、更に於戸姫という娘が入水した時にうたった和歌から名付けたとする説などがあるようだ。このうち於戸姫悲話とは美人に生まれたばかりに不幸な生涯となった娘の物語である。戦国時代の明応年間のこと、戸塚の高田に京から都落ちした和田靭負という浪人がいた。浪人には於戸姫という娘がいた。大変な美貌で戸塚小町と呼ばれていた。ある時、近在の男が於戸姫を妻にしたいと求婚したが、身許のしっかりしない男だったので親は許さなかった。すると男は親の留守を狙って夜陰に於戸姫を奪って逃走した。しかし板橋辺りまで来て背中の於戸姫を下ろすと於戸姫は恐怖のあまり気を失って死んだようになっていた。男は手をつくしたが息を吹き返さず、これは死んだと思いこわくなって於戸姫を置き去りにして逃げてしまった。そこに三郎左衛門という貧しい百姓が通りかかり 於戸姫を見つけるた。百姓は川の水を飲ませたりして介抱した。やがて於戸姫は息を吹き返したので、百姓は自分の家に連れ帰り、女房と共に看病してくれ た。ところが於戸姫はショックから記憶喪失症となっており、自分の名前以外はすべて忘れ去っていた。そこで百姓夫婦は於戸姫を実の子の様に育てた。そのうちこの辺りに住む小川左衛門次郎義治と言う武士が於戸姫の美貌に惚れて求婚してきた。於戸姫も義治を気に入ったので夫婦となり幸せな暮しを送ることになった。しかしそれも束の間、義治の友人の村山三郎武範という武士が於戸姫に横恋慕し、夫の義治さえいなければと勝手に思い込み、義治を襲い切り殺してしまった。これを見た於戸姫は怒りくるって薙刀をとり村山に切りかかった。村山は於戸姫の予想外の行動に驚いて逃げ出したが、於戸姫の従者に追われて切り殺された。傷心の於戸姫は自分が生をうけて以来うち続く不幸は、結局は自分の美貌にあるとし、ある日の夕方髪を切り家を出ると、里を流れる川の畔にやってきて川面に姿を映し歌を詠んだ。「変わりぬる 姿見よとや行く水に うつす鏡の影そうらめし」、また「かぎりあれば 月も今宵はいでにけり きょう見し人も いまはなき世に」。こうして於戸姫は橋から自らの身を投げた。
一方、面影橋の北詰の旧オリジン電気の横の角地には「山吹の里」と刻んだ石碑が立っている。文字の下には如意輪観音が刻像されている。山吹の里と言えば戦国初頭の智将大田道灌を思い出す。傍らの由緒書によれば、確かにこの辺り一帯は大田道灌ゆかりの山吹の里なのだそうだ。ちなみにここから旧オリジン電気の一筋裏手の道を300~400mばかり東へ進んだ住宅街の中に「山吹の里公園」と称する小公園がある。公園にはかの有名な歌「七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだに なきぞぞ悲しき」と記した歌碑が立っている。また一方、面影橋の南、都電荒川線の走る新目白通りを横切り甘泉公園を抜けた所には水稲荷神社があるが、その境内の一角には「大田道灌駒繋松」という松がある。この辺りは道灌の旧跡の多い所なのである。太田道灌は15世紀の後半、扇谷上杉の家宰として関東で活躍した武将である。18世紀前半の江戸時代に成立したという道灌の山吹の里伝説とは次のようなものである。昔、太田道灌がこの辺りに鷹狩にきた時のこと、急ににわか雨にあい、蓑を借りようと一軒の農家を訪ねた。ところが農家から出てきた若い娘は、ただ黙って一枝の山吹を捧げるだけだった。不愉快な思いで城に帰った道灌はそのことを家臣に話したところ、中村治部少輔重頼という家臣が、それは「七重八重 花は咲けども 山吹の みのひとつだに なきぞかなしき」(後拾遺集)という古歌にならったもので、実のならない山吹と家に蓑がないことをかけた娘の奥ゆかしい対応であろうと説明した。道灌はこれを聞くと自分の無学を大いに恥じ、以後和歌を勉強して文武両道の武将になったという。ところで山吹の里の所在については諸説がある。東京では新宿区山吹町から西方の甘泉園、面影橋の一帯を指すと言われ、実のならない八重山吹が群落をつくっていたという。そのほか、荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町とする説もあり明確でない。(この項つづく)
2022-11-28 14:24
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