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妖精の系譜 №39 [文芸美術の森]

コールリッジの『ピクシーの唄』と『クリスタベル』 1

        妖精美術館館長  井村君江

 アルジャノン・スウィンバーンは、コールリッジを「月の美に魅惑された詩人」と言っているが、確かに彼の詩には星明かりに広がる森、月明かりの霜夜、夕暮れに光を増す廃墟の月が多く詩の舞台として描かれている。『ピクシーの唄』の舞台もおぼろに照る月のもとに描きだされた幻想的な妖精の踊る草原である。        
 デヴォンシャーのオッター川が流れる丘のふもとに「ピクシーのほこら」と呼ばれる葉のほら穴があって、そこにピクシーたちが住んでおり、夜になると野原に出てきてマドリガルを歌い踊ると信じられていた。一七九三年の夏、この地を訪れたコールリッジはその古伝承にもとづいて、彼の詩中最初の超自然的存在を歌った『ピクシーの唄』を作ったが、一般にコーンウォール地方に伝わっている鉱山に住むいたずら妖精の映像とは異なったピクシー像を描いている。

 不可思議な輪をなす谷間をぬけ
 雌び戯れる彿竃のうちに、我ら妖精の脚はすばやく動き、
 あるいは昔のない靴をはき、西風の楕虞を囲んで、
 巧みに恋を語り、花に戯れることに倦み、
 すみれ咲く堤の上に身を横たえてまどろめば、
 いにしえの楽の音が、淋しきオッター河の
 眠りを誘う流れのそばにきらめく。

 ここに歌われている風景は牧歌的田園詩であり、妖精ピクシーは「西風の精霊(スピリット・オブ・ウエスタン・ゲイル)」や「ゼファー」など、ギリシャ・ローマの古典的な神々と共に歌われてお。、伝承的な本来のいたずら妖精の悌(おもかげ)はない。

 我らは虹色の衣をまとい、
 香ぐわしいバリエニシダの花の露をすする
 きらめく光の中で流れる小川の調べに合わせ
 踊りつつ戯れ遊ぶ

 婦人たちよ、小さな部屋へようこそ
 そこは積れないピクシーたちが住むところ、
 だが、我らが妖精の女王という
 優しいニンフよ、
 いかなる出会いのあいさつを
 あなたのお出ましにしたらよいのか。

 月夜の野原で踊り、花の露をすすり、人々を自分の棲み家へ誘い込むというこうした妖精の特色や属性は描かれているが、ビクシー独自の特色ある動きはここにはなく、自然の情景のひとつとしてきれいに納まってしまっている。
 コールリッジの代表作である長篇の物語詩『老水夫行』は、友人で画家のクルックシャンクの「人影が見える骸骨船を見たという不思議な夢」にもとづき、「老水夫が南の海に入ったとき一羽のアルバトロス(アホウドリ)を殺し、海の守護精霊がその罪の復讐をする」というワーズワースのヒントに沿って書かれたが、幻想的な世界が詩人独自の言葉の魔術によって現出されている。ただ一人生き残った老水夫が乗る船を海に操るのは「南極の精霊の仲間である守護(ガーディアン)のデーモンたち、宇宙の原素(エレメント)の目に見えぬ生きもの」であるとコールリッジはこの詩につけた註で書いている。土地にはその守護精霊が住んでいるという考えをコールリッジが持っていたことは、先のデヴォンシャーに住む妖精ピクシーの詩や南極の精霊を歌っていることからもうかがえる。
 コールリッジがワーズワースとその妹ドロシーと付き合っていた六年間に湖水地方の自然の中でそのほとんどの詩を書いたことはよく知られているが、自然を見てもコールリッジには彼独自の魔術的なヴェールがかかり、超自然の世界がその自然の中に展開されてくるのである。三人で一緒に見た「ある木のてっぺんにただ一枚残って風にくるくるまわる木の葉」も妖しい森の予兆を告げる映像と変わって、作品『クリスタベル』の詩に歌われる。この詩も未完であるが、中世の森と城に繰り広げられる一積の韻文ロマンスといえるものである。(この項つづく)

『妖精の系譜』 新書館



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