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武州砂川天主堂 №14 [文芸美術の森]

第四章 明治五年 2

          作家  鈴木茂夫

六月初旬 築地・稲荷橋教会
 寿貞と新六は、教会の運営についても、意見を述べていた。教会に住み込んでいる青年たちの食費をはじめ、総ての経費は、教会が負担している。住み込んでいる青年たちには、起床、食事時刻、消灯をはじめ、室内の整理整頓を求められている程度の規則が課されている。祭儀への参加、神学の講義の受講などは、自由とされている。このため、青年たちは、朝食がすむと、昼食まで、あるいは昼食後、夕食まで、自由に外出する者もいる。こうした状況に寿貞や新六は、教会が無料宿泊所になるのは好ましくない。青年たちが全員布教に出かけるように規則を改めるべきだと助言していた。
 横濱教会の住み込み信徒の一人が問題を起こした。安部新造と言う。安部は妻も子もいる四十一歳。長崎で中国語の通訳として働き、カトリックの教理書『夢醒眞論』を著述した大物の信徒だ。その経歴をふりかざし、教会の外へ出ることを願い、妻を呼んで外泊し、教会の出入りを自由にさせて欲しいと申し出たところ、厳しく断られたため、教会から脱走した。
 後に残っている信徒は、神父の命令に従わなかった安部の著作で教理を学習するのは不愉快きわまりないと討う声が上がった。ミドン師は、書物の内容は、教理に外れているところはないから、問題にはならないと諭した。

六月二十一円、築地・積荷橋教会。
 マラン師とミドン師は食卓で向き合っている。
 「ミドン神父、私は伝道のしかたについて考えていたんですがね」
 「私も、この積荷橋教会のあり方について意見があります」
 マラン師は、笑顔をみせた。
 「どうやら、二人で同じようなことを考えていたようですね。それでは、私の考えから申しましょう。現在、この教会には、青年たち二十余人が暮らしています。小さな教会ですから、これ以上の人を受け入れる余裕はありません。しかし、この教会の存在は、人びとに知られています。教会に入りたいという人には、断るしかありません。そして神の教えを聞きたいと言う人には、日帰りで教会に通って貰っています。教会の扉は、すべての人に開かれていなくてはなりません。そうなるとですよ・・・」
 「マラン神父、そうなると、新しい広い場所が必要になる、そうじゃないんですか」
 「そうです。そうなんですよ。その通りです。私は、この教会が発展して付属の神学校を作ればいいなと考えていたんです」
 「大賛成です。それにはどうすればよいか」
 「適当な場所を探せばいいんです」

 それから数日後、
 「マラン神父、良い場所を見つけましたよ。場所は麹町(こうじまち)三番町、元の旗本亀井勇之助(かめいゆうのすけ)邸が空いていました。家の持ち主に聞いてみたら、貸してもよいとのことです」
 「それはよかった。住み込みの青年たちにも、そのことを伝えましょう」

 神学校は、ラテン学校と命名され、七十余人の青年学生が、初歩のキリスト教義の学習をはじめた。

七月二十三日、フランス・パリ外国宣教会。
 ジェルマンは二十三歳で、ラングルの神学校からパリ外国宣教会の大神学院へ転校した。ラングル神学校のバンベール神父は、外国で布教にあたりたいというジェルマンの望みに応えて推薦しくれたのだ。
 大神学院では、フランス各教区の神父の推薦を受けたおおむね十八歳から二十歳の篤信(とくしん)の青年たちでなければならない。信仰、学力、体力について審査を受け、適格と認められれば、入会が許される。ジェルマンの資質が優れているからと特別の計らいだった。
 パリ外国宣教会(ミッショネール・エトランジェ・ド・パリ 略称・MEP)は、フランス語を母国語とする人たちが主体となり、アジアの諸民族への布教を推進することを目的としている。一六五八年に創立され、パリに本部が置かれている。パリ市七区バック通り二一八番地。これが本部の所在地だ。「バック」とは「渡し船」の意味。
今はセーヌ川にかかるロワイヤル橋のある場所で、昔は渡し船が運航されていたことに由来する。会員は「渡し船(パック)」という言葉に、特別の意義を与えている。会員の宣教師たちは、神の愛の「渡し船」となって、遥かなアジアへと旅立つからだ。本部から発行される会報の名は、「バック通り(ルー・ド・パック)」と命名されている。
 大神学院は全寮制だ。三年間に司祭となるのに必要な課目を学習する。神学、哲学、祭儀、ラテン語、教会音楽、キリスト教史、伝道史、アジアの歴史などである。アジア諸国の言語は履修しない。言語は、卒業後に派遣された各地で自主的に学ぶこととされている。
 上級クラスに編入されたジェルマンは、すぐさま授業に取り組む。
 初めての課業は、デルペシ神父による伝道史だった。教室は、大神学院入口左手にある殉教者の記念室だ。
 「諸君は、本学院の所定の課目を履修すると、司祭に任命される。ついで伝道に赴く地域が伝えられる。諸君は出かけるのだ。神の恩寵を伝えるために生涯を捧げるのだ。そのほとんどの人は、二度と再び祖国フランスの土を踏むことはなかったし、今後もそうなるであろう。ある者は殉教者としてある者は病に倒れ、ある者は静かに異郷で生涯を終える。今、諸君の前には、殉教した多くの先輩たちにゆかりの品がある。見てみよう、中国、朝鮮、インドシナで用いられた拷問の器具だ。鉄の鎖、釘抜き、首かせ、足かせ、刀剣のたぐいだ。また、これらの国で殉教した司祭、信徒の遺骨が納められている。よく見て欲しい。これらの器具には、司祭の命がかかっていたのだから」
 二十人ほどのクラスの生徒は、じっと見つめる。これらの器具が自らに加えられる危険が現実にあるのだと神父は訴えているのだ。
 「この掛け図を見てください。これは一八三五年、今から三十七年前のことです。インドシナ半島で伝道していたヨゼフ・マルシアン師は、釘抜きで全身の肉を引きちぎられて死去したのを措いたものです。アジアにおける伝道は、殉教と背中合わせなのです。これに対する私たちの唯一の武器は聖書です。諸君は聖書を頼りに小さな『渡し船』として荒れ狂う海原(うなばら)を航海することになるのです」
 ジェルマンは、頬から血の気が引いていくのを感じた。目の前にあるのは、殉教という言葉にある美しさとはまるで違うものだ。拷問を行う人は、冷静にその器具を使って、最も効果的な苦痛を与えようとするのだ。拷問を受ける側は、名状しがたい肉の苦痛を受けつつ、神の恩寵を称えるのだ。それはイエス・キリストが十字架で味わった肉の苦痛と、神の恩寵が極限で交錯したことを思わせる。
 ジェルマンは、心の中で対話する。感じることは恐怖だ。恐怖に打ち勝つには、神を信じること以外にはない。ジェルマンは思う。拷問の掛け図を見て想像する限り、恐怖から逃れられない。神を信じる心を信じる以外にはない。心とは霊魂だ。死ぬか生きるかの選択ではない。信仰か苦痛かの比較でもない。信じ切る以外に道はない。それが永遠に生きる唯一の道だ。
 ジェルマンは気づいた。これは考えて解ける命題ではない。何事も起きていない状況のなかで、あるべき自分を想定しても仕方ない。そのような状況に直面した時に、何を頼りとするかを瞬時に選択しょう。そう思い定めると、気が楽になった。主イエス・キリストの後ろに従えばよいのだと心が落ち着いた。

『武州砂川天主堂』 同時代社



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