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海の見る夢 №42 [雑木林の四季]

              海の見る夢
         -群衆の人―
               澁澤京子

 ソウル、梨泰院で群集事故が起きた。ハロウィンの時期の渋谷を歩いたことはないが、大みそかの深夜の渋谷の凄まじい混雑に驚いたことがある。あまりの人混みにほとんど歩けず、電車に乗るまでずいぶん回り道しないとたどり着けなかったのを覚えている。若い時のおおみそかは友人たちと深夜の渋谷をうろうろ歩きまわったものだけど、あんなに混雑している渋谷を見たのははじめて。梨泰院と同じ事故が、今まで起こらなかったほうが不思議なくらい。ネットで情報を共有することによって、一か所に人が集中するようになったと言われているけど、渋谷に最短で来る路線が、昔に比べて大幅に増えたこともあるだろう。

梨泰院の事故で生き残った人たちの証言を読むだけで、辛くて息がつまりそうになる。「足がつかなかった」「倒れたら圧死すると思った」「身動きができない苦しい状態のまま人波に押し流された」・・など。亡くなったのは10代20代の若い子たちばかり。友人と過ごすのが一番楽しい時期に(人混みに行くな)というのは無理だし、まさかそんな事故に遭うなんて誰も思わなかっただろう。死傷者が一番多かったのは狭い通りの真ん中あたりだったという。ほんの偶然が生死をわけたのであり、「偶然」という事は誰でもそうした事故に巻き込まれる可能性があるということなのだ。

スクランブル交差点にまた観光客が戻ってきた。昔は、まさかこんなところが観光地になるとは夢にも思わなかった。E・A・ポーの短編に『群衆の人』という、短編小説がある。冒頭に「ただひとりあることに耐えられぬという、この最大の不幸」というブリュイエルの言葉が掲げられている。ある男が夕暮れ時に一人、ロンドンのとある通りの雑踏を眺めている。上流階級の人間、商人、事務員、長い間働いて疲れている若い女、詐欺師から娼婦まで、通りはあらゆる種類の人が通る。その中で、一人の初老の男の相貌に悪魔的なものを見つけて、その痩せた小柄な老人の後を付けていく・・

~私はなんとなくその(老人の)表情の伝えた意味を分析しようとしたのだが、私の心に雑然、紛然と浮かんできたのは・・警戒心、貧窮、貪欲、冷酷、悪意、残忍、得意、上機嫌、恐怖心、そして極度の絶望といった一連の観念であった・・~『群衆の人』

老人は群衆を見つけてその中に混じると初めて生気を取り戻すが、一人になるとたちまち生気が失われてゆく。この老人は、常に他人や群衆がいないと生きていけないのだ。相対主義の時代に普遍的価値を喪失すれば、拠り所は他人や世間しかない。世間の評判の良いものを盲目的に「良い」と判断し、多数の意見は「正しい」と鵜呑みにし、他人の判断に引きずられ、自分を疑うことをせず自己満足にひたり、自分の頭で物事を考えようとしないような「空虚」な人間。他人に嘲笑的になるか、そうかと思うとまったく他人に無関心になるか・・基本的にそうした精神は拠り所を失った「空虚」から生まれてくる。老人の相貌に浮かんだ様々の「悪」は集団化によって強化されてゆくのである。かつての小保方さんバッシング、最近の小室圭さんバッシングを見れば、今の日本には、どんなに他人の不幸を好む人々が多いかが明らかだろう。それもまた他人依存なのだ。

~認識の欠けたところには悪がはびこる・・『夢遊の人々』H・ブロッホ

20世紀初頭、ブロッホは普遍的価値観を喪失した時代の人々の姿を描いた。そうした人々は複雑さを嫌い、まるで夢遊病者のように無意識のまま生きる。この小説の第三部に登場する、即物的な商人ユグノーは善悪是非の価値判断を持たないが、利には敏く、その中心原理は自己利益という単純な世界観を持った人物。今の時代はユグノー的な即物的ニヒリストが結構多いのかもしれない。

そして、価値観を喪失した空虚な人間は、その意識を容易に他人に乗っ取られてしまうのである。(皆同じ)であることで安心するのはまさに「自我の拡大」であり、それが次第に集団狂気になってゆくのは、オウム事件で、ナチスで、あるいは戦時中の日本を見れば明らかだろう。物理的な人混みに押し流されそうになれば、人は何とかそこから脱出しようとするが、集団心理に押し流されることに人は無自覚、無抵抗であり、寧ろそれは「自我の拡大」なので快感になるのである。個人個人がバラバラに孤立した社会であればあるほど、「自我の拡大」と「一体化」を求める欲求は強くなり、人は安心したいために一人でいるよりも複数に属し・・そして、多数になるにつれ、それは次第に暴力的なものに変貌してゆく。たとえば、一人でいるとおとなしい人間が自分の味方を引き入れ複数になると、打って変わったように強気の態度になるのも、集団に属する安心感からであり、暴力や野蛮というのは個人の対立よりもむしろそうした集団心理から起こるのだと思う。

~ご覧のとおり、私たちは状況の多様性が次第に減少してゆく中で、後期ローマ帝国への道を一直線に歩んでいる。あの時代も、大衆の、そしておぞましい同質性の時代であった。~『大衆の反逆』

オルテガが『大衆の反逆』で批判した「大衆」とは別に庶民階級のことではなく、まさに集団に属することで安心して強気になる人々のことなのである。(根回しや談合などの泥臭い人間関係もそうだろう)常に、多数派は少数派を圧迫して勢いを増す。逆に、オルテガが「貴族的」精神としたのは、孤立してもどんな状況でも自己を見失わず、しっかりした自己のモラルを維持できる人々のこと。たとえば、周囲からの嫌がらせにもめげず、最初から一貫してイラク戦争に反対を主張し続けたチョムスキー、あるいは気候変動のためのストライキをはじめた少女グレタ・トゥーンベリなどは「貴族的」精神の持ち主だろう。二人とも、世界の理不尽に敏感であり、それについて調べて勉強し、たった一人でも行動できる勇敢な人間であり、一方で「大衆」は何もせずに、彼等を誹謗中傷するか、訳知り顔で批判するだけなのである・・(グレタさんはアスペルガー症候群である事を公にしているが、現在ひきこもっているとか、そうした疾患を持っている人に対して、伝えたいことをたった一人でもアピールできるという勇気を与えてくれると思う。)そして、どうしても訴えたいものを持っている人の前では、「大衆」の批判などはただの安っぽいチラシのように薄っぺらに見えてしまうのである。

~社会において個人を抑制するほとんどすべてが崩壊し効力を失ったとき、個人は己の内部から引き出すものによってしか品位を保つことはできない~『大衆の反逆』

梨泰院の事故で唯一の救いだったのは、圧迫されて倒れた人々を救おうとした市民が少なくなかった事だろう。ある高校生は、雑踏から何とか抜けだして、明け方まで夢中になって救護したという。「怖くなかったですか?」というインタビューに、「すごく怖かったけど、それよりなんとかしようと夢中だった」と答えていた。彼は恐怖よりも、自分の内部からの要請にしたがって夢中になって行動したのだ・・人は平気で野卑な「大衆」に同化することもあれば、この少年のように自分の中の「規範」に従うこともできるのだと思う。

~卓越した人間は自らに多くを求める人間であり、凡俗な人間とは自らに何も求めず、寧ろ現状に満足して自己陶酔に浸っている人間である~私にとって貴族とはつねに自己超越しようとする生、あるいは既存の自己を超え出て、自らに義務や要求を課することへ向かう生のことである~『大衆の反逆』

特に年取ると、自己満足の人は増えてくる、体力も気力もなくなってくるから当然なのかもしれないが・・しかし、自己満足の老人より、世の中の理不尽に敏感な老人の方が若々しく、さらに、老いてなお、自身を未完成なものとみなして自己を超えようとするような、自己に厳しい人になると少数だろう。

~現時の特徴は、凡庸な精神が、自己の凡庸を承知のうえで、大胆にも凡庸なるものの権利を確認し、これをあらゆる場所に押し付けようとする点にある
~拠るべき市民法の原理が存在しないところには文化が存在しないということだ。~
~そこにあるのは野蛮だけである~『大衆の反逆』

力のある者、声の大きな者が強引に物事を決めつけ、推し進めてゆく社会。政治家による嘘やごまかしなどの理不尽、それを擁護するとんちんかんな識者が平気で横行する社会。凡庸さを押し付け、為政者に都合よく法を無視する社会。それは五輪疑惑や統一教会の問題を平気で国民が見過ごしてきた日本にあてはまるのであり、さらに権力批判ではなく批判が民間の一個人のスキャンダルに向けられる事の多いマスコミ、そのような国で教育や文化が衰退してゆくのは必然なんじゃないだろうか?

~野蛮への後退が始まった。つまり自分の過去を持たない、あるいは忘れた人間の幼稚さ、野蛮性への退行である~過去と真剣に体当たりしていない。未来が過去を超克するのは過去を飲み込むからである~大衆化した人間は自分の宿命である不動の堅固な大地の上に足場を固めることをしない。むしろ、空中に宙づりの虚構の生を営む。いまだかつてなかったようなように重量も根も持たぬこれらの生が、おのが運命から根こぎにされて最も軽薄な風潮の中を流されるままになっている~『大衆の反逆』

オルテガは歴史を忘れないことの重要さを説く。内省が、自分の「見たくない部分」を直視しないとはじまらないように、それがどんなに負のものであろうと、人は歴史や過去の失敗を受け入れて初めて前進できる。ベンヤミンは「戦争を避けるためには、戦争について常に語り続けることだ」と言った。

そして、この「大衆」についての文章は、SNSの時代を生きている私たちのことのようにも読める。SNSの匿名性は私たちを過去からも身体からも切り離す。そして、可能性が開けているようで、実は根無し草の様に流されやすくなる私たちはまさに「夢遊の人々」であり、無意識のまま折々の流行に飛びついては、方向も何も分からずに流されてゆく。

~自己解放を成し遂げた後、なすべきこともなく各自は自分自身に閉じこもり、空虚なものになったのだ。~エゴイズムは迷宮である。・・「生きる」とは何かに向かって放たれることであり、目標に向かって歩むことである。その目標は、私の道のりでもなければ私の生でもない。それは私の生の遥か向こうにあるものなのだ・・自己中心的に歩むつもりなら進むこともなくどこにも行けないだろう、これこそが迷宮であり、どこにも行きつけない道、自己の中で道に迷い、まさに己の内部を歩き回るだけの道なのである。~『大衆の反逆』

オルテガの「大衆」は自分に満足しているので他人の話に耳を傾けようとしない。科学者だろうが大学教授だろうが、政治家、財界人、宗教家でも、閉ざされた世界で自己満足すれば、皆「大衆」になってしまうのである。梨泰院の事故で多くの市民が救助に協力したように、他人のために働いている時、あるいは何かに夢中になっている時、オルテガの言う「生の遥か向こう」に向かっている時に、はじめて自己を超えることができるのかもしれない。

~避けようもない場面から構成される生のほかに、己自身に根を持った生、真正なる生はないのだ~誰もが今新しい生の原理を確立する切迫した必要性があることを認識している。しかし、似たような危機の時代にはいつもおこることだが、ある人たちはすでに失効した原理を極端で不自然な形にして強化することによって、急場をしのごうとしている。これこそここ数年の間に起こった「ナショナリズム」的噴出の意味する所である。いつの時代もこうなのだ。消滅の前夜、国境線は軍事的国境も経済的国境も神経過敏となっている。しかしこれらの「ナショナリズム」はいずれも袋小路である。~『大衆の反逆』

オルテガがこれを執筆したとき、スターリンやムッソリーニのファシズムが念頭にあったのは言うまでもないが、こうした不自然なナショナリズム「美しい日本」を私たちはすでに経験している。そしてプーチンのウクライナ侵攻は止まらない今、ここに書かれていることはまさに私たちにそっくり当てはまるではないか。そして、オルテガがこれを書いている時よりも、気候変動など私たちは遥かに大きな地球規模の問題も抱えているのである・・

群衆の人ではなく協力し合う人に、他人任せで流されるのではなく、自分で考えて行動するようになれば、もしかしたら未来はもっと明るくなるのかもしれない。


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