SSブログ

夕焼け小焼け №2 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

妻・貞子との年月

             鈴木茂夫

 妻・貞子が息を引き取った。万感胸に迫る。
  貞子は、二〇二二年十一月五日午後七時半、立川の特別養護老人ホーム・ほほえみで息を引き取った。享年八十九歳。 夫婦としてともに暮らして六十四年間。はじめて知り合った時から数えると七十年を超える。私は大学の一年生、貞子は高校の二年生だった。
 私たちはごく自然に結ばれた。
 熱心な天理教信者の私の母は、毎月かなりの金額をお供えとして教会に差し出していた。会社からもらう給料は、一般の水準からして悪くはなかったが、母のせいで私たちは貧しかった。
 でも貞子は明るく暮らしていた。質屋に行くことは始終だったけれども。母が死去して暮らしは人並みになった。
 貞子は立川の女声合唱団カノンに加入し、アルトを担当していた。楽しそうに楽譜を読んでいた。
 立川の点字サークルに加わり、点字の作成に励んだ。点訳奉仕者のリーダーの資格も取得し、会員のみなさんに新しい点字の在り方を伝えていた。いつしかサークルの会長となり、熱心に点訳を続けていた。
 私が放送人として現役の頃は、家事のなにもかも貞子の裁量にまかしていた。退職してから、貞子が出かけるとき、車で行く先まで送った。帰りも待っていた。それは長年しごとで、好き放題にしていた私のささやかなお返しだった。
 貞子は一男、二女の母だ。子どもたちも成長し、初老の域に達している。孫が七人、曾孫は四人。優しいおばあちゃんとして親しまれている。なくなる前日、孫も曾孫も面会に来た。貞子は眼を開き、微笑してみんなに接した。お別れの出会いだった。
 二年前から、貞子ががふとした日常の出来事を繰り返して聞いたり、なじみの場所の名前を忘れているようになっていた。私はそれが単なる物忘れだとして、受け答えしていた。
 庭で植木鉢につまずき、腰を強く打ってから、歩行が困難になった。認知症が進行していたのだ。ケア・マネージャーの世話になり、近くのデイ・サービスみはらし舘に出かけるようになった。最初は週に一度だったが、週に五日行き始めた。
 さらに症状が進行しているからと介護老人保健施設なごみの里に収容された。コロナ禍のため、面会は月に一度、ガラス窓越しに五分間。家族はそれを待ちわびていた。私たちの呼びかけに、貞子が笑ったり、手をあげたりすると嬉しかった。
 老健は自宅復帰のためのリハビリテーションや医療ケアが中心ということで、貞子は特別養護老人ホームへ移るように示唆された。そこで特養のほほえみに移動。新しい生活が始まった。介護の職員はよく手当してくれたが症状は改善されなかった。
  子どもたちがわが家を去り、独立した所帯を持ってから、二人で旅するようになった。
車はホンダのアコード、フィット。かならず愛犬のケンちゃんが同乗した。
 車の中ではあんまりおしゃべりしなかった。物を言わないでも、共に満たされていた。高速道路に入ると、貞子はよく眠った。微笑しているような寝顔だった。
 法隆寺への道はかなりあった。途中、伊勢うどんを食した。なかなかの美味だった。
 北茨城市の六角堂に岡倉天心を偲ぶと、赤倉の六角堂も良く訪ねた。四季折々に妙高市にある会社の寮はご常連だった。
 あるとき、岐阜公園を訪れた。ここには板垣退助像がある。貞子の父森学は彫刻家だった。貞子には嬉しい対面だった。犬山城を仰ぐ旅館に泊った。
 秋のさなか、東北道に乗った。ひたむきに走って盛岡に入った。盛岡城は不来方城(こずかたじょう)ともいわれる。お城の石垣の上に紅葉葉が散らばっていた。その一枚を封筒に入れ、声帯ガンで手術を受ける同僚の岩崎君に送った。
 貞子はどうなるのか。私にはわからない。宗教に答えはあるのか。魂が体から抜け出して浄土へ行くのか。確かに貞子がどうなるのかを教えてくれるなら、私は文句なしにそれを信じよう。貞子はかけがえのない俺の女房なのだ。
 貞子との年月は幸せなものだった。ありがとう貞子。
 次は私の番だ。家族に心配をかけないよう、貞子のように静かに死ななければ。


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。