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多摩のむかし道と伝説の旅 №88 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

多摩のむかし道と伝説の旅
-神田川水辺の道と伝説を巡る旅-6

             原田環爾

 熊野神社を後にして中野長者の菩提寺成願寺へ向かうことにする。十二社通りに沿って、交差点「熊野神社前」の次の信号で左へ入る街路を採る。街路は昔からある静かな裏通りといった雰囲気だ。うねうねと道なりに進むと左に庚申堂が、続いて柳橋という古びた石橋が現れる。但し川は消滅して橋だけが残されている。更に進み羽衣湯を左にやると神田川の宝橋の袂に出る。神田川沿いの水辺の道を西へ50mも進めば車両の行き交う山手通りの「長者橋」の袂に出る。長者橋の名はもちろん中野長者に由来している。山手通りを200 m北へ向かうと沿道左に竜宮城の様な山門の寺院が見えてくる。それが成願寺だ。曹洞宗の寺で山号を多宝山と号す。本尊は釈迦如神田川6-1.jpg来。室町時代の永享10年(1438)中野長者と呼ばれた紀州出身の武士鈴木九郎の開基になる。寺域は元は中野長者の屋敷であったが、一人娘小笹の死から残りの人生を仏門に捧げたという。山門をくぐると境内右手に本堂と百観音堂があり、前方に中野長者の供養塔「長者塚」がある。また境内には「中野長者物語」と題した絵物語が詳しく掲示されている。
 折角なので近くにある宝仙寺に立ち寄ることにする。山手通りを北に進神田川6-2.jpgむと程なく青梅街道との交差点「中野坂上」に来る。左折して青梅街道を西へ400mも進めば道標「宝仙寺前」が掛かる丁字路に来る。ここを右に入るとそこに宝仙寺の山門がある。山門をくぐると境内は広く、正面に本堂、大書院、右に大師堂、左に臼塚、三重塔、御影塔が配置されている。宝仙寺は真言宗豊山派の寺で山号を明王山と称す。平安時代の寛治年間(1087~94)に源義家が奥州後三年の役を平定して凱旋帰京の途中、陣中に護持していた不動明王像を安置するため建立したという。なお三重塔は江戸初期の寛永13年(1636)に建立されたが、先の戦争で塔を含め大伽藍がすべて焼失し、昭和23年に再建された。ここまで来たのでついでに宝仙寺の三重塔が元あった所という「塔の山公園」へ向 かう。寺の右手外周の路地に入りうねうねと進むと小さな公園が現れる。そこが三重塔が建っていた所だ。今は児童の遊園地になっていて、中央に見事な桜の樹が一本立っているだけだ。すぐ東の山手通りに出ればそこに終着点の中野坂上駅はある。

■東中野から水道橋へ至る都心下流域
 都心の神田川沿いには上水以外にも多くの名所旧蹟がある。戦国初頭の智将大田道灌、細川藩や水戸藩の大名屋敷跡、松尾芭蕉ゆかりの旧蹟などがある。更に川沿いにはよく整備された公園が多数散在し気持ちがいい。ここではJR総武線東中野駅を出発し、すぐ駅の東を流れる神田川の畔にでる。神田川に沿って高田馬場、早稲田と進み、大洗堰跡を過ぎると、江戸川橋からは神田川を離れて、旧神田上水の流路跡を辿り、小石川後楽園を経て水道橋駅へ至るものとする。

神田川6-3のコピー.jpg

 東中野駅の東口を降りて細い下り坂の路地を東へ向かい、鍵の手に進むと程なく神田川の万亀橋の袂に出る。橋の上から神田川の下流方向に頭を巡らすと、前方上空に高層マンションが2棟聳えている。ここから神田川沿いを北へ辿るのであるが、緑の多い右岸の散歩道を採る。程なく中央総武線のガード下に来る。ガードを抜けると散歩神田川6-4.jpg道は一段と緑豊かになる。大東橋の袂に来ると、この先散歩道の傍らにはささやかな水路が設けられてとても気持ちがいい遊歩道になっている。南小滝橋、亀齢橋を過ぎると車両の行き交う早稲田通りの小滝橋に出る。緑豊かな遊歩道はとりあえず、一旦ここで終わる。早稲田通りを渡り再び右岸の道に入る。沿道に讃岐屋の暖簾の掛かる風雅な造りの店舗がある。求肥・寒天・黒蜜を製造販売しているようだ。程なく久保前橋の袂に来る。左岸には落合水再生センターの建屋が横たわる。中野区の大部分と新宿・世田谷・渋谷・杉並・豊島・練馬区の一部からの下水を処理し、処理水は神田川に放流しているという。ついでせせらぎ橋にくる。対岸は先の下水処理場の北側に隣接する「せせらぎの里」と称する公園になっている。園内は樹木が茂り中央には処理水を活用して造られた池がある。児童公園にもなっており親子連れが多い。せせらぎ橋を後にすると川筋は大きく東へ転じ下落合地区に入る。新堀橋まで来ると左手護岸に分水路が現れる。分水口には「高田馬場分水路」と記されている。この分水路は神田川が増水した場合に、このすぐ神田川6-5.jpg北50mを東西に流れる妙正寺川の辰巳橋の下で妙正寺川の川筋に逃している。本来は妙正寺川がこの新堀川のすぐ下流にある落合橋の付近で神田川に合流していたのだが・・・、今は落合の名を残すだけでここでの合流はない。この経緯を少し詳しく述べると、妙正寺川は杉並区の妙正寺池を水源に東流し、下落合の落合橋付近で神田川に流れ込むのが本来の姿であった。しかし合流点ではしばしば河川の氾濫が発生し、その氾濫は下落合から飯田橋辺りまで及ぶ有様だった。これを解消するため昭和40年代に大幅な河川改修が行われた。すなわち妙正寺川の下落合での神田川流入を遮断し、新たに神田川の新堀橋から分水路を掘り、神田川に平行する新目白通りの下を掘り進み、高田橋で再び元の神田川に接続するというものだ。これが高田馬場分水路である。そして妙正寺川は辰巳橋の下で分水路に繋げられた。一見複雑であるが、要は川幅を広くした神田川に妙正寺川を繋げたと同じことである。(この項つづく)

 

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