SSブログ

武州砂川天主堂 №13 [文芸美術の森]

第四章 明治五年 1

          作歌  鈴木茂夫

四月十六日、武州・砂川村。
 一通の書面が机の上に広げてある。
 源五右衛門の表情は沈鬱だ。

 玉川上水路通船相関候以来追々船数相増自然上水不潔二至リ東京府下用水差支オヨビ候二付来ル五月晦日限り上水路通船差留候条船持共へ不洩様可相達候事
 (たまがわじょうすいろつうせんあいひらきそうろういらいおいおいふなかずあいましぜんじょうすいふけつにいたリとうきょうふかようすいさしつかえおよびそうろうにつききたるごかつみそかかぎリじょうすいろつうせんさしとめそうろうじょうふなもちともヘもれざるようあいたつすべきそうろうこと)
                          大蔵大輔 井上響

 玉川上水通船を禁止するとする、大蔵大輔・井上馨の名義で東京府に送られた文書だ。通船により、玉川上水の水が不潔になっていたことは、当然の成り行きだった。東京府は、上水の実地検査を行い、上水の水を水道水として使用するには、通船を差し止めるしかないという見解をとりまとめたのだ。
 しかし、何の前触れもなく、突如として出された禁令に、源五右衛門は、言葉を失っていた。一昨明治三年四月十五日に開業となった通船は、わずか二年一ケ月半で幕を閉じる。百四艘の船は、東京へ多摩の農作物を運び、村々に収益をもたらしていた。それが消えてしまう。
 通船に関わっている船頭、舟子など五百数十人、荷物を扱っていた多くの人たちが職を失う。
 名主として村の繁栄を念頭においてきた源五右衛門には、耐えがたい決定だった。通船は経世済民の有力な手だてだったのに。
 ともかく、この禁止令を解除してもらうことだ。しかし、かつてのように政府中枢に格別の知己はいない。ひたすら正面から、再開を懇願するしかないのだ。
 源五右衛門は、論点の整理に取り掛かる。
 水道用水には、新しい用水路を開墾し、通船事業はこれまでの水路を利用する。通船禁止により、物資の流通経費が上昇して、生活が苦しくなる。通船事業者は、船や倉庫の売却をしなければならなくなり損失を受ける。
 この三点にしぼり、関係二十か村の連名で書類を提出した。これに対し、東京府では、通船を行う限り用水の汚濁は避けられないと却下された。
 源五右衛門はめげなかった。上水の水質改善のため新水路を造る場合、その経費は通船事業者が負担すると申し出た。しかし、申し出は許可にならなかった。
 通船事業は、廃止に追い込まれたのだ。

六月初旬、築地・桐荷橋教会。
 明治新政府は、キリシタン厳禁の政策を堅持している。それはカトリックであるとプロテスタントであるとを問わない。明治政府が、居留地にキリスト教各会派の教会の建設を認めたのは、居留地の外国人のためであって、日本人のためではない。しかし、現実に各会派の宣教師たちは、横濱居留地を拠点として東京でも日本人を対象として布教活動を行っている。これを黙って見過ごす訳にはいかない。当然、取り締まりを行って信徒を逮捕するべきだ。しかし、それをすると、在日外交団から激しい抗議にさらされる。今、キリスト教信仰の問題で事を構えるのは得策ではない。まずは、宣教師たちの活動の実態を把超しておこうとなった。
 明治政府は、情報収集の工作員を各会派の内部に送り込むことを決意した。キリシタン諜者(ちょうじゃ)である。
 諜者は個別に送り出され、指定の連絡先に報告を行う。嘉に諜者が二人送り込まれていても、諜者同士はお互いが諜者であるとは知らされていない。諜者たちは、信仰を求めていると装ってそれぞれ教会の中に入り込んでいた。諜者には、キリスト教の教義を理解し、報墓を作成する能力があることが求められる。宕橋教会の動静も克明に報告していた。

      報告                                    東郷巌
一、六月九日、東京在住ノマルシャル師ハ、長崎へ転勤トナックタメ、当日出発二先立チ書生一同ヲ堂内二集メ、特二心ヲコメテ講話ヲ行ナィ、午後二時出発シマシク。教会内ノ全学見送り、高山直冶艮(たかやまなおじろう)ハ横浜マデ随行シテ別レヲ惜シミ、十四日二帰京シマシタ。
一、十一日朝、宮城県ノ関新六ト申ス者ニ面会致シマシタ。コノ者ハ、東京・築地ノ旧新島原遊郭内の旧高見楼、現在旅館営業ノ千年屋二竹内寿貞ト同宿シテオリマス。竹内、
関ノ二人ハ、信仰ヲシテイルコトハ表面二出サズ、世情ノ動向ヲ直接見開スルタメ、教会外ニアリ、時々 教会へ参り、牧師ト談話致シテオリマス。
一、十四日、昨日ミドン師ハ横浜へ行キ、本日帰京致シマシク。
 夜、竹内、関ガ教会へ参り、先日ノ会議ノ結論ニヨリ、早速、教会運営ノ規則ヲ改メルヨウニシテハ如何ト、牧師二申シ出マシク。
 コレニ対シミドン師ハ、「間モナク司教モ上京サレルカラ、ソレマデハ従来ノ規則ヲ守ルコトニシテイタィ。横浜デモ意見ハマチマチデアリ、長崎茂四郎ヲ布教ノタメ各地へ巡回サセルコトニ取り決メテイル」コノコトカラ司教ノ意向ヲ察スレバ、伝道ヲ専ラトシ民ヲクブラカスコトヲ第一ト致シテオリマス。
 シカシ、東京地区ハ諸子ノ意見ノヨウニナルデアロウト思ワレル。又各開港場モソレゾレ状況ニヨリ勘案シ、速力ラズ諸子一同分担シテ布教スルコトガ必要デアル」ト考ヲ述べマシク。
一、十二日、イエス・キリスト生誕ノ像ヲ与へテレマシク。
一、十七日、「聖母密行」トイブ中国語版ノ本ヲ与へテレマシク。
  コノ日ノ夜、教会へ参リマシタ際、○戸俊(としゅん)、佐久間健治ハミドン師二間イ糾シマシク。
 「手モトエアル和綴ジ本ハ、スぺテ安部ノ著作シクモノトイワレテイルガ、安部ハ、神父ノ命令ヲ犯シタ罪人デアリ、コウイウ人物が書イタ書物ニヨリカトリックノ教理を修習スルコトハ、実ニ不愉快ナコトデアル」
  コレニッツミドン師ハ、
 「ソノ書物二書キ記サレテイルコトハ、神ノ聖理ニ外レティルトイウモノデハアリマセン。 従ヅテ作者本人ヲ吟味非難スル必要ガナイト思イマス」
 ト答エマシク。吏二両人ハ、
 「安部新造ハ、長年教会ニアッテ功績モ秀レティルトシテ心ガ廃リクカプリ、司教二教会ヲ出ルコトヲ願イ、且又妻ヲ呼ンデ外宿致シ、教会ノ出入リヲ勝手気億ニデルヨウ許可シテ欲シイト牧師二申シ出タモノデアリマス。コノ申シ出ハ却下サレタバカリデナク、逆ニキビシク或(いまし)メラレタタメ、コレヲ恨ンデ脱走致シ、政府ニオモネリカトリックハ奸邪(かんじゃ)ノ教ナリト訴エ、ソレバカリデナク神道ノ書ヲ著作シクトイウコトデ、誠ニカトリック宗門ノ敵デアルトイウべキデアリマス……」ト申シ述べテオリマシタ。
二十八日、マリン師ハ、東京ノ教会ヲ主宰スルヨウ、司教ヨリ命ジラレマシタ。竹内ノ証人ニテ岩手県ノ本藤敬四郎(もとふじけいしろう)ト申ス者ガ教会へ入り込ミマシタ。
                              以上          
 寿貞は稲荷橋教会の中にはいない。居留地に隣接する新富町の旅館千年屋に元仙台藩士の関新六と暮らしている。この千年屋はもともと高見楼といった遊女屋だった。明治元年、築地居留地が開かれるのにあわせ、外国人を対象とした新島原遊郭が造成され、三十八軒の遊女屋が店開きした。しかし、築地居留地の外国人の多くは、官吏、教員、宣教師などのため、利用することも少なかった。このため、明治四年、取り払いとなり、遊女屋の建物は安価な旅館に模様替えしていた。
 寿貢と新六の居室は、四畳半と六畳間の二間続きの和室、紅殻色の壁が遊郭の名残を留めている。マラン師は寿貞の落ち着いた人柄を見込んだ。教会での共同生活を離れ、自由に世間の情報を探り、教会にもたらす役割を託したのだ。そのための費用は、教会が負担している。教会とは別の場所が良いと、千年屋を選んだ。

『武州砂川天主堂』 同時代社



nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。