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多摩のむかし道と伝説の旅 №87 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

多摩のむかし道と伝説の旅
-神田川水辺の道と伝説を巡る旅-5

             原田環爾

神田川5-2.jpg 元の万亀橋に戻り神田川水辺を進む。新開橋、柏橋と進むと次に大久保通りの末広橋に来る。末広橋のすぐ下流側で西から桃園川が合流している。桃園川とは杉並区から中野区へかけて大久保通りの南側に沿って流れる小川であるが、今はすっかり暗渠となり桃園川公園として綺麗に整備され、都会の散策路としては貴重なものになっている。神田川5-3.jpgところで橋の袂の合流点の暗渠の上は小公園のようなスペースになっていて、その一角の植木の中に「神田川」の歌碑が立っている。「神田川」と言えば、昭和48年フォークシンガー南こうせつとかぐや姫がクラウンレコードから150万枚も売ったという大ヒット曲 として知られている。

♪貴方はもう忘れたかしら    赤い手ぬぐいマフラーにして
 二人で行った横丁の風呂屋   一緒に出ようねって言ったのに
 いつも私が待たされた     洗い髪が芯まで冷えて
 小さな石けんカタカタ鳴った  貴方は私のからだを抱いて
 冷たいねって言ったのよ    若かったあの頃
 なにも怖くなかった      ただ貴方のやさしさが怖かった♪
                作詞 喜多條 忠    作曲・歌 南こうせつ

神田川5-4.jpg ついでながら末広橋から大久保通りを400mばかり西へ進んだ所に鎮守の森に覆われた中野氷川神社がある。長元3年(1030)埼玉県大宮市の氷川神社から勧請した伝える。社殿は室町時代の応永年間に改築したという。文明9年(1477)太田道灌が豊島泰経・泰明兄弟を討伐する折、当社に立ち寄り戦勝祈願し、凱旋後社殿を造営したと伝える。
 更に川沿いを進み、伏見橋、栄橋を過ぎると前方に激しく自動車の行き交う淀橋が見えてくる。通りは青梅街道だ。淀橋の東側は青梅街道に都道302号線が合流する大きな三叉路になっている。それにしても淀橋とはいかにも難波の匂いがする名前だが、橋の袂に立つ「淀橋の由来」と記した由緒書を見て納得した。淀橋は元は「姿見ずの橋」とか「いとま乞いの橋」と呼ばれていたという。それがどうして淀橋に名が改められたのか。それには後に中野長者と呼ばれた浪人の奇怪な伝説による。
神田川5-5.jpg神田川5-6.jpg 昔、鈴木九郎と名乗る源氏の家臣が浪人となって流れてきて今の中野に土着した。家計の足しにと持っていた馬を馬市で売ったところ高値で売れ、それがきっかけで家運が上向き、やがて大金持ちとなり中野長者と呼ばれるようになった。彼は有り余る財宝の置き場所に困り、ある時下 男を使って近くの川に架かる橋を渡って向こうの雑木林の中に埋めた。そして埋めた場所を知る下男を帰り途中に橋の袂で、一刀の元に切り殺し川へ流した。財宝はあまりにも多かったので、同じ方法で次から次と財宝を埋めては下男を殺した。殺した下男は10人にもなったという。村人達は長者屋敷から下男が荷物を担いで橋を渡ると、再び姿を見ることがないということから不思議に思い、いつしかこの橋を「姿見ずの橋」と呼ぶようになった。一方中野長者には 一人娘がいた。年頃になったので婿をとることになった。市谷で結婚式が行われたが、三三九度の盃を取り交わしている最中、突然熊野神社の森の上から黒雲がわきあがり雷雨となった。すると花嫁は身体を震わせたかと思うと、みるみる大蛇となって這いだし、十二社池まで行くとたちまち池の中に没してしま った。長者は多くの下男を殺した罪が禍したと悔い、小田原最乗寺の住職、春屋宗能禅師に救いを求めた。禅師は十二社池の畔に祈祷所を設け念仏をあげると、やがて池の水がざわついて、花嫁姿の娘が現れ、笑みをたたえて空高く舞い上がっていった。その後長者は禅師の弟子となって仏門に入り、屋敷、財産を投げ出して中野に成願寺を建て、多くのの塚や仏塔を築き滅罪に打ち込んだという。それから数百年、時代は下って江戸時代、三代将軍家光が中野辺りに鷹狩りにやってきた折のこと。神田川に架かる橋の名が「姿見ずの橋」と聞いて、これを不吉なことと思い、橋の名とこの辺りの地名を一緒に改めるよう命じた。そして川に見える水車が浪速の淀川に見る水車の風景と似ていることか ら「淀橋」と呼ぶように命じたという。以来、西新宿のこの辺り一帯は淀橋と呼ばれるようになったという。
神田川5-7.jpg これより神田川を離れて先の伝説の中野長者に縁の深い熊野神社に向かう。青梅街道を横断し淀橋袂から左斜めへ入るやや寂れた舗装道路に入る。程なく右に東京電力の淀橋変電所前に来る。ここから先は幅広の道路は消え、変電所の外周に沿うコンクリート壁に挟まれた狭い路地になる。やがて左に小さな淀橋児童公園が現れ、公園を抜けると忽然と高層ビルが立ち 並ぶ十二社通りに出る。十二社通りを南へ400mも進めば交差点「熊野神社前」に至る。神社は新宿中央公園の北西端の位置にあり、交差点の角の交番右手を十二社通りに沿って更に200mも進神田川5-8.jpgめば入口がある。入口を入るとすぐ大きな鳥居があり、参道の先に拝殿、本殿が、また参道左に神輿蔵、神楽殿が、右には社務所がある。なお本殿右側には江戸時代の狂歌師大田南畝の書になる銘文が刻まれた水鉢がある。熊野神社は、室町時代の応永年間(1394~1426)に、中野長者鈴木九郎が、故郷の紀州熊野三山より十二所権現をうつし祀ったと伝えられ、そのためこの辺りは十二社と呼ばれる。鈴木家は紀州藤代で熊野三山の祠官を務める家柄であったが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎の代に中野に住むようになった。九郎はこの地域の開拓にあたるとともに、自身の産土神である熊野三山より若一王子宮を祀った。その後鈴木家は家運が上昇し、中野長者と呼ばれる資産家になったため、応永10年(1403)熊野三山の十二所権現すべてを祀ったという。この十二所が、昭和45年(1970)までこの地の町名であった十二社と読み変ったものとされている。神社は江戸時代には熊野十二所権現社と呼ばれ、八代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、池や滝を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れたという。正面鳥居の右手にはこの地が景勝地であったことを示す嘉永4年(1851)造立の「十二社の碑」が立っている。(この項つづく)


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