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海の見る夢 №40 [雑木林の四季]

海の見る夢
   -静かな音楽 秋庭歌―
                 澁澤京子

  ~他界よりながめてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水~
                           葛原妙子

 武満徹の雅楽『秋庭歌』を聴く。何て静かなんだろう・・音楽を聴いて、静寂さを感じるというのも変だけど、これは、おそらく水の音楽、といっても、ラヴェルの『水の戯れ』のような水の奔流ではない、「静けさや 蛙飛び込む 水の音」のように、まるで静寂を引き立てるかのように音楽があるのだ。そもそも、日本人の音に対する感覚というのは、常に静寂とセットになっているような気がする。筧の落ちる音、鐘の音、虚無僧の尺八、雨の日の琵琶の音・・・

藤原定家は、視覚的な歌人として有名だけど、また、鋭敏な聴覚も持っていたらしく聴覚的な短歌も多い。
「しのばじよあはれもなれがあはれかは秋をひびきに打つ唐衣」
「冬きぬと時雨の音に驚けば目にもさやかにはるる木の本」
澄んだ秋の大気も、すっかり葉の落ちた庭の木も、季節の移り変わりは、まず、空高く響く衣を打つ音や、寒々しい時雨の雨音によりとらえられる。

「きりふかきと山のみねをながめても待つほど過ぎぬはつかりの声」
「月もいさまきの葉ふかき山のかげ雨をつたふるしづくをも見し」
霧で視界の悪い山の中の遠く聴こえる雁の声、月も出ない闇の山中の雨音・・雁の声や雨だれが、逆に静寂を表している。

昔、ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』を読んでいたら、次々と教会の鐘の鳴るパリの街の風景の2,3ページにわたる美しい風景が描写してあって、もしかしたら、ユゴーはこの鐘楼の音色を最も書きたかったんじゃないかと思ったことがある。まだ、教会の鐘の音が日常生活の中に溶け込んでいた頃のパリ。方々から響いてくる鐘の音が交響曲のように流れ、それはどんなに街に、人々に、活気と情緒を与えていたことだろう。

西洋音楽が様々な音色の組み合わせによって、調和して音楽となるのに対し、日本の音楽は一つの音が音楽そのものになっていて、それは静寂とセットであり、静寂もまた音楽になっているようなところがある。『平家物語』もすでに滅んでしまった一族の物語なのであり、お能の演目には、死者や異界のものとの対話が多く、常に「死」「静寂」、「無」というものが「生」と隣り合わせにある。「人間五十年、下天の内に比ぶれば 夢幻の如くなり・・」~(敦盛)はまさに他界からの眺めであり、日本の文化には、死者の視点と生者の視点が交差する「一期は夢」の感覚が根強くある。華やかでありながら潔く散りゆく桜を日本人が愛するのも、それが他界から眺めた生の儚さを連想させるからかもしれない。

インターネットの発達により、ますます孤独な時間も静寂な時間も持てなくなってしまった私たち。ネットにあふれる情報は孤独や静寂の時間を妨げる。以前、グランドシャルトルーズ修道院のドキュメンタリー映画『大いなる沈黙へ』を岩波ホールに観に行ったら、すごい行列ができていて入れなかったことがあった。それだけ、今の日本人は「静寂」「孤独」の時間に飢えているのだろうか。ちょうど時々、身体が音楽を欲するように、「沈黙」も「孤独」の時間も人には必要なのかもしれない。

グランドシャルトルーズ修道院の生活と同じように、「接心」の間は誰とも話をしてはいけない沈黙の行で、それに慣れてしまうと、普段でも沈黙しているのがすごく楽になってくる。逆に日常では、浮くような浅い言葉で会話していることにも、時々気が付く。たいていの世間話はこの浅い言葉によって交わされていて、親しい関係になるともっと深い会話になってくるが、心の奥底にあるのは静かな音楽のようなものでなかなか言語化しづらく、自分の気持ちに的確な言葉を探すのはなかなか難しい。

自然との対話には、まず「静寂」と「孤独」が必要じゃないだろうか。わたしたちが静かに呼吸さえすれば、樹木も呼吸していることがわかるだろう、そして、樹木の存在そのものが語りかけてくるような気さえするのだ。自然は決して私たちに意味を押し付けてくることはなく、まるで音楽のように優しく包み込んでくれる。

~天使たちは使う言葉が少なければ少ないほど、天国において高位を占めるとアレオパギタ(偽デイオニシウス)は述べています。したがって、最も位の高い天使はたった一つの音節しか発しないのです。それは私たちが危惧しなければならなかった単調さの例でしょうか?本当のところ、多様性の欠如から生まれる単調と、多様なものの調和であり、多様性の尺度である統一性の間では、いかなる混同も可能ではありません。
                                  ~『音楽の詩学』ストラヴィンスキー

西洋の調和というのは、個々の違い、多様性から生まれる。(みんな同じ)の単調な統一とはまったく違うものである。樹木が深く根を張るように、個人個人が深く自己を掘り下げることによって、私たちは、はじめてつながっていることに気が付く。複雑な関係の絡み合うこの多様な世界、それこそまさに神秘じゃないだろうか。

日本の調和とは、一つの音がすでに統一された音楽になっていて、それは静寂の中に消えてゆく、というか最初から無に消えさるのが前提になっている感じなのである。個々の多様性の調和ではなく、すでに統一された状態から静寂に消えゆくプロセスであり、西洋音楽が天上の高みを目指すのに対し、静寂はブラックホールのように何もかも吸収してしまうところがある。何もかも飲み込んでしまう静寂から(・・仕方がない)(所詮・・)といった日本人独特の醒めた諦念が生まれたのかもしれない。あるいは、静寂は新に再生するための役割を担っているのだろうか。(新年おめでとう、など日本人は自分を新しくリセットすることが好きだ)日本人は、「他界からの視点」を持つことで、この世界とのバランスを自然に取っているのじゃないだろうか。俯瞰する視点の位置からは、すべては一つに見えるのだ・・

西洋音楽が、ピュタゴラス~プラトンから近代まで「調和」をずっと目指してきたのに対し、もしかしたら日本の究極の音楽は静寂なのかもしれない、と考える。すでに統一されているということは、もともと日本には「個人」という概念が希薄なのかもしれない。そして、音と静寂、生と死のはざまにあるものは、おそらく水なのだ・・・

~・・しかし風の中に主はおられなかった。
 ・・地震の中にも主はおられなかった
 ・・火の中にも主はおられなかった
 ・・火のあとに 静かに囁く声が聞こえた
                    ~列王記上 19・11~12

人はそれぞれ思考パターンも価値観も違う。檻の中で回し車をクルクルと回し続けるハムスターのように、なかなか自分の思考パターンも価値観も変えることができない。どんなに自分をリセットしたつもりでも、相変わらず同じ狭い回し車をクルクルと回しているのである・・しかも、たいてい自分が檻の中に閉じ込められていることすら気が付かないのは、思考は無意識の内に自動的に動くからなのだ。しかもそれは自己中心に働く事が多い。

檻から何とか脱出するために、宗教や芸術が生まれたのだと思う。何しろ檻というのは人の無意識にあるものなので、とても厄介なのだ・・宗教家は孤独と沈黙の中で、あるいは芸術家が何かに没頭している時、人は初めて神の囁きを聴く。

コミュニケーションの難しさは、それぞれが狭い檻に閉じこもっていることから起こる・・ところが、愛にあふれ善良で、かつ優れた洞察力のある人間が一人いるだけで、バラバラの価値観を持っている全員が和やかに仲良くなることがある。私が師事しているシスター・キャサリンがその一人。彼女は、自然と相手の呼吸を敏感に読み取って、それぞれの呼吸に合せているように見える。「檻」なしの全くの自然体でコミュニケーションできる稀有な人。

私たちのコミュニケーションに必要なのは、まず先入観を捨てて白紙の状態で相手と向かうことかもしれない。頭で理解する前に、相手の存在を、呼吸を、深い所で感じること。何でも、乏しいネット情報だけの理解で浅薄に決めつける事の多い今の時代、私たちに最も欠けているのは「存在を感じること」、そうした身体感覚を大切にすれば、自ずと存在に対する敬意も生まれるのではないだろうか。インターネットやスマホの文字情報に依存し過ぎる事による弊害はとても大きい。人との、世界との信頼関係は、身体の深いところによってつながり、自然にゆっくりと育まれるものなのだと思う。信頼関係があるからこそ一人一人がのびのびと、それぞれ違う個性を発揮できるのであり、そこではじめて多様性社会が実現するのではないだろうか。

ファシズムは、信頼関係のないバラバラの人間関係でおこりやすい。為政者はそこであえて、団結させるために仮想敵を設定するが、何かを悪に見立てたり敵視することで仲間意識を持つなんて、いかにも貧しい絆ではないか。また、言葉による理解だけで安易な結論にしがみついて自己満足したがるのもファシズムの特徴で、世界は不確定で謎だからこそ、十分信頼するに値するのではないだろうか。

人間、あるいは個から出発して調和と統一を目指す西洋の考え方と、すでに俯瞰した視点から統一を見る日本人の考え方の違い。そうした違いが人間関係や社会に与える影響は大きいが、調和や統一を目指すことは同じだろう。

静寂と孤独の時間を持つことは、逆に人や世界との絆の深さを教えてくれると思う。



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