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多摩のむかし道と伝説の旅 №86 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

多摩のむかし道と伝説の旅
-神田川水辺の道と伝説を巡る旅-4

             原田環爾

神田川4-1.jpg 梢橋、藤和橋を過ぎ藤和緑地を抜けると八幡橋に来る。八幡橋と言うのは橋の南詰に八幡神社があるからだ。川筋は程なく大きく右方向へカーブする。向陽橋を過ぎ、下高井戸運動場横を過ぎると荒玉水道道路の神田橋の袂に出る。ここを横切ると遠く明大前界隈のビルが見える様になり街の装いが一段と濃くなる。東電総合グランド、次いで杉並ろう学校横を過ぎると永福通りの永福橋の袂に出る。永福橋から永福通りを北へ100mばかり進んだ所に永福稲荷があり、その手前の道を右に折れた所に永福寺がある。三度の火災被害を受けて建物は新しいが戦国時代からの古刹である。曹洞宗の寺で山号を万歳山と号す。本尊は鎌倉期の仏師快慶の手によるという十一面観音像である。大永2年(1522)秀天慶実を開山として開創された。旧永福寺村はこの寺の名を採ったものである。天正18年(1590)小田原城が落城した折、北条氏の家臣安藤兵部丞は7歳の若君を守りながら、当時の住職を頼ってこの地に落ち延び再興を図った。しかし間もなく若君は敵に捕えられて殺され徳川の世となったので、再興をあきらめ旧家臣とともに帰農し、永福寺の檀家となり、村の開発に努めたという。先の久我山の大熊氏もこの子孫という。なお境内の左墓苑の入り口付近には古くから村人に信仰された「子授け地蔵」がある。
 森泰樹著「杉並の伝説と方言」によれば永福寺の子授け地蔵とはこんな話である。正徳3年(1715)安藤仁左神田川4-2.jpg衛門が子供の健やかな成長を願い、村人と協力してお金を出し合い、墓地の入口に地蔵を建立した。ところが墓地は人家から遠くほとんど忘れられていた。ある時子供のない夫婦が、子供が欲しくて住職に相談したところ、墓地の入口に立つ地蔵にお参りするのがよいと勧めた。早速三七二十一日間、毎日お詣りしたところ間もなく子宝を授かった。同じことが他の夫婦でも相次ぎ、「永福寺子授け地蔵」として知れ渡るようになり、遠くからも盛んに願掛け詣りを受けるようになったという。
 コースもいよいよ終盤に入る。川は左へ大きく蛇行する。ささやかなどんぐり公園の横を通り、時折右手の小高い丘の上の明大の敷地に目をやりながら進むと、川は高井戸駅以来離れていた井の頭線と再び交差する。ガード下をくぐったところに蔵下橋という小さな橋があるので、この橋の袂で右折し井の頭線沿いの路地に入る。坂道を上り井の頭線の上に架かる跨線橋を渡る。跨線橋には大きな土管の様な異様なパイプが併設されているが、あの玉川上水が姿を変えて井の頭線の上で交差しているのだ。跨線橋を渡ると明大和泉校舎横で玉川上水を記念するささやかな公園にもなっている。ここから明大前駅へは、明大正門前を通り、大きな陸橋を渡って甲州街道の筋向いに廻り、路地へ入ればすぐそこにある。

■東中野・西新宿周辺の都心中流域
 都心の神田川水辺はよく整備されており気持ちのいい散策路になっているが、それだけではなく名所旧蹟も多神田川4-3.jpgい。中でも東中野と西新宿の境を流れる神田川水辺には、淀橋の地名にゆかりの深い中野長者の伝承地が散在する。そのほか古代日本を震撼させた平将門の乱を平定した藤原秀郷や、戦国初頭の智将大田道灌など古代・中世に活躍した武将にゆかりの深い旧蹟などもある。ここではJR総武線東中野駅を出発し、駅の東を流れる神田川の畔にでた後、神田川に沿って東中野や西新宿に散在する旧跡を巡り、帰路は都営大江戸線中野坂上駅に至るものとする。
JR総武線東中野駅の東口を降りて細い下り坂の路地を東へ向かい、鍵の手に進むと程なく神田川の万亀橋の袂に出る。橋の上から神田川の下流方向に頭を巡らすと、2棟の高層マンションが聳えている。東中野駅のすぐ北側にあるマンションで、西側がユニゾンタワー、東側がパークタワーだ。ここから南へ神田川沿いに辿るのであるが、その前に万亀橋を渡ってすぐの所に平将門や藤原秀郷など承平天慶の乱にゆかりの深い寺社があるので立ち寄ることにする。橋を渡って街路を道なりに200mも進むと圓照寺が、更に寺の外縁を辿ると鎧神社がある。
神田川4-4.jpg 圓照寺は真言宗豊山派の寺で山号を医光山と号す。薬師如来を本尊とする。一方鎧神社は日本武尊、大巳貴命、少彦名命、平将門を祭神とする。鎧神社の由緒書によれば、天慶3年(940)関東に威を称えた平将門が下総猿島に滅びた時、追慕する民衆が天暦(947)の始め、将門公神田川4-5.jpgの鎧を埋めた所という。また別の説では将門の残党を追ってこの地にやって来た藤原秀郷が重病を陥って苦しんだ。これは将門公の神霊の怒りにちがいないと怖れ、薬師如来を本尊とする圓照寺境内に将門公の鎧を埋めて祠を建てその霊を弔った。これを聞いた里人がこの地の産土神、鎮守の社として信仰してきたという。(この項つづく)


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