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武州砂川天主堂 №11 [文芸美術の森]

第三章 明治四年 3

         作家  鈴木茂夫

五月二十三日、東京市内。
 二人は、朝の祈りをすませると、すぐに町へ出かける。やがて、靴が破れ、ズボンの膝も抜けてよれよれになってきた。マラン師は、近くの古着屋で職人の着用する納戸色の股引と草履を手に入れた.。
 横浜の聖心教会に戻れば、着替えもある、布教用の資金の手当ても手にできる。しかし、二人はそうしなかった。「歩く伝道」に専念したいからだ。
 町に出て笑顔で挨拶すると必ず笑顔が返ってきた。しかし、神の話をすると、誰もが申し合わせたように、笑顔で首を横に振る。
 なぜそうなのだろう。この国の人たちは、捉えどころがない。手応えがない。二人の周りには、見えない壁が巡らされているように思えた。

五月二十七日、築地・稲荷橋教会。
 樹木は若緑の芽を吹きはじめた。
 朝、マラン師はミドン師と二人で朝の礼拝をしていると、表口に立って中の様子をうかがっている若者がいることに気づいた。好奇心と驚きを顔中に浮かべ、若者は礼拝の成り行きをじっと見ていた
 マラン師が手招きすると、物怖じせずに上がり込んできた。くたびれた紺餅(こんがすり)の着物、仙台平(せんだいひら)の袴、手にした風呂敷包みの中身は、書物のようだ。頭は総髪、うっすらと無精ひげが伸びて、どこか幼さが見える。
 正座して二人に一礼する。若者の眼は涼しく澄んでいた。
 「お尋ねしますが、フランス語を教えて下さるとは本当ですか」
 マラン師が微笑で答える。
 「その通りです。寝泊まりしてもよいですよ」
 「それではお願いします。私は元仙台藩の医師鈴木亦人(またひろ)と申します。私の家は、代々、医術をもって藩に仕えておりました。戊辰の戦争の際は、奥羽鎮撫総督医員として従軍しました。仙台藩が敗れ悶々としていましたが、思い切って上京しました。横濱の居留地に行き、アメリカ長老派の宣教医ヘップバーン先生につき、眼科の研修をいたしました。一応の成果がありましたので、東京で職に就きたいと奔走いたしましたが、賊軍の仙台人というだけで相手にされません。生活費も乏しくなり、困り果てていたところです」
 「鈴木さん、あなたが何であるかは問題ではありません。私は、学びたいというあなたの希望を受け入れます。」
 「いいです。ここにいていいです。ここは小さな教会です。ここではみんな神様の兄弟です。分かりますか」
 若者の顔がはじけるように輝き、大きくうなずいた。
 教会のなかに、はじめて日本人が住みついたのだ。二人の神父は、朝夕の礼拝の行儀を教える。つぎに、若者には、横浜聖心教会の印刷所で作成された『聖教初学要理』が渡された。こうして亦人は、「稲荷橋教会」の最初の住み込み人となった。

十月二日、仙台。
 竹内寿員は、戊辰の戦で仙台藩が降伏したのに伴い、獄につながれていたが二年後には放免となった。ただ、賊軍の一員とされたことにより、新政府への就職の道は閉ざされている。致し方なく、県内加美郡(かみぐん)で幼少年相手に学塾を開いて生活の糧としていた。しかし、仙台にとどまっていては、将来の見通しは全く立たない。二十七歳となり、新しい都・東京へ出て新たな生活をはじめたいと考えた。まわりを見回すと、仙台から東京をめざす若者は後を絶たない。東京に新天地を兄いだそうというのだろう。      寿貞も養子に出た弟の祐平と語らい、上京の腹を固めた。だが、金の余裕はない。思い切って大刀と脇差(わきざし)を売り、旅費に充てた。
 寿貞は上京に際し、県と名を改めた藩庁へ届けを提出した。届を出す寿貞の心情は複雑だった。寿貞には、自分がどのような身分でいるのかと思う。藩に所属しているなら、俸禄を与えられ、藩士の身分が保証されているはずだ。あの戦いに敗れ、藩士として罪に問われ、獄につながれたのだ。しかし、戦い以後、藩から俸禄を受け取ってはいない。とはいえ、藩と自分との関係が暖味になってはいるものの、寿貞には、仙台藩士としての矜持がある。寿貞は、その矜持を大切しておこうと思った。
 寿貞は、市内新坂通りにある菩提寺・荘厳寺(しょうごんじ)に詣でて、先祖の墓に別れを告げた。帰宅して机に向かい、筆を走らせた。

 届
    一、四番士族
    一、父お扶持米拾六俵
    一、実名玄孝(ふかよし))
洋学為修業(ようがくしゅぎょうのため)向(むこう)壱ヶ年御暇願之上十月四日御県地発足同十二日上着仕(じょうちゃくつかまつり)当時第拾六区芝源助町栗橋左清八等止宿罷在候(ししゅくまかりありそうろう)
右之通(みぎのとおり)書上申候 以上
                     四番士族有節嫡子
                         竹内寿貞
   辛未(かのとひつじ)十月三日
   県庁

 寿員は県庁を訪れた。応対に出た初老の役人は、届を手にすると、這、戸惑いを浮かべた。それをもみ消すように何度か瞬き、
「書面は確かに受け取り申した。ご苦労なことでござる。道中ご無事に」
 と会釈した。
 届を出すと、許可が出され、通行手形が発行されることはないのだ。
 藩には藩士を束縛する規律はもはや消滅しているのだ。つまり、言い換えれば、届の提出は全く無用のことだったのだ。だからこそ、係の役人は戸惑ったのだ。時代が変わっているのだ。
 この時、寿貞の胸に、矜持が沈んでいった。仙台藩に決別したのだと覚った。

十月十四日、仙台。
 寿貞は両親に挨拶し、弟祐平を伴って家を出る。広瀬川の大橋を渡ると東京へ通じる奥州街道の一本道だ。その距離九十一里(約三百五十七キロ)七十一の宿場を通って南下する。男の足で八泊九日の旅程だ。街道筋は、うら寂れている。通行手形を改める宿場役人の姿はない。時代は変わっているのだ。
 二人は、足並みをそろえて道を急いだ。

『武州砂川天主堂』 同時代社



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