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海の見る夢 №39 [雑木林の四季]

海の見る夢
  ―銀の滴降る降るまわりにー

            澁澤京子

子供の時、大人に遊園地に連れて行かれるよりも、山とか海、森のような自然の方がずっといいのに、と子供心に思っていた。実際、今でも、自然の中にいるとなんだか自分が善人になったような錯覚を起こすのであって、自然が人に与える作用というのは、例えば、バッハを聴いていて気持ちが優しく落ち着くような、そういう感じにとても似ている。

今年は北海道のみならず、各地での熊による被害のニュースが相次いだ。アイヌ最後のヒグマ猟師・姉崎等さんへのインタビュー本『熊にあったらどうするか』がすごく面白い。「私は、熊を自分の師匠だと本気で思っています。」と語る姉崎さんは誰よりもヒグマの事がわかる。ほとんどの熊は人間に会わないように避けるし、襲ってくる場合はこちらがうっかり相手のテリトリーに入ってしまった時なのだという。広葉樹林やブドウ蔓が伐採され、針葉樹林ばかり植樹されるようになってから、山で熊の食べる木の実がなくなり人家の近くまで徘徊することになったのだという。野鼠を駆除するため毒を散布して生態系を壊す、また、ハンターや釣り人がカップ麺や食べ物のゴミを平気で捨ててゆく。熊の居場所を平気で奪っているのは人間なのである。

熊はどんなに離れていても、狩猟者の考えを先読みするので、狩猟になると心理戦になるというのは、昔マタギの本で読んだのと同じで、熊はとても頭のいい動物なのである。人に危害を与えたり殺した熊は「カムイ」(神)ではなくなり、(悪い神)となる。熊は一頭ずつ個性があり、中には性格の悪い熊もいて、そういう熊は白目勝ちで目付きが悪いのだそうだ。「ヒグマも人間も、性格は目にすべて現れますからね。」と姉崎さん。姉崎さんは若い時、貧しさからずいぶん嫌な思いをされたらしい・・「それに比べたら、ヒグマを追っている方が全然怖くないです」そう、ヒグマよりずっと怖いのは人間のほうかもしれない。

以前、西表島から無人島に船で渡りキャンプしていたことがある。(マラリアで人が全滅した島)ある日、キャンプ地と反対の海に行こうと細い山道を登りきったところで、いきなり野生の水牛に遭遇したことがあった。野生の水牛はすごく大きいし、ふつうの牛よりずっと気が荒い。恐怖のあまり動けなくなったが、水牛と目を合わせたまま、静かにゆっくりと山道を後ろにさがり、水牛が見えなくなったところで初めて走って逃げた。姉崎さんの「目をじっと合わせる」「背中をみせない」と思わず無意識のうちに実行していた、というか、目をそらしたらすぐに襲われそうで、怖くてそらすことができなかったのだ・・

経済と利便性を追求した結果、ずいぶん自然を破壊してしまったし、自然との付き合い方がわからなくなっている私たちは、今や「自然に優しい日本人」なんて、とても言えないだろう。スーパーで買った肉を平気で食べている私たちが、生計を立てるための狩猟、漁猟を残酷と批判するのはすごい矛盾で、狩猟者というのはその対象の動物に対して、私たちよりもずっと敬意と愛情を持っているのである。むしろ、パック入りの肉や魚を平気で食べる私たちの方が(動物を殺している)自覚を持たないだけに、残酷なのかもしれない。
昔、沖縄の漁師兼民宿にずっと居候し、お爺さんとお婆さんに大変お世話になったことがあった。そこの家には「海の神様」を祀るとても大きな祭壇があった。漁に出る前に海での安全を祈るのだ。「海の神様」とか「山の神様」とか、そういう素朴なアニミズムに共感する私は、ダイヴィングに行く前にも、お婆さんと一緒に必ず手を合わせて心をこめてお祈りしたのであった・・(お婆さんが心配するので彼女が畑仕事しながら見えるところでダイヴィングしていた)私が学生の頃の、沖縄離島の漁師さんの生活はとても貧しかった。しかし、あんなに自然に対して謙虚に生活している人たちを私は知らない。普段、謙虚と無縁に生きている私は、本当に謙虚に生きている人を目の前にすると、思わず手を合わせたくなるような気持ちになるのである。

我が家の隣との境界線にある樹齢800?年の欅は、父が区の保護樹林として申請をだし、渋谷区に「保護樹林」と認定されている大きな欅。しかし家の売却に伴い、この欅の権利も保護樹林の申請書も譲ってしまうので、欅は残るか分からない・・・(次の持ち主の方が申請を取り消せば伐採するのは自由らしい)この辺一帯はほとんどマンションとなり、住宅街の樹木が圧倒的に減った。猛暑の夏も、日蔭というものがまったくない道を代官山まで延々と歩かないといけない・・東京の住宅街に情緒がなくなったのは、やはり樹木が減ったせいだと思う。

先週、シスター・キャサリンが、我が家の欅にわざわざ会いに来てくださった。目を閉じて大きな欅をハグされるシスター・キャサリンは、アイルランド系アメリカ人。彼女の中には、ケルト人の血が色濃く流れているかもしれない、と思ったのだった。

ヨーロッパ人のルーツの一つである、ケルト文化とアイヌ文化には似ているところが多いと思う。「文字を持たない」「独特の装飾文様を持っている」「動物神を崇拝」「芸術的」「流動性」「彫金や木彫りの手仕事が発達」「装飾品に凝る・お洒落」また、ケルトだけじゃなくヨーロッパでは広範囲にわたり「熊」は最も神聖な獣とされていた、など。なお、縄文土器や土偶には、ケルトと同じ渦巻き模様がたくさん見られるし、また、日本の縄文遺跡にはストーンヘンジもある。(大湯環状列石 秋田)

縄文が静かなブームだという。関東~東北にかけて栄えた縄文文化は、農耕文化が入ってくると共に取り入れるようになったが、農耕を最後まで拒否したのがアイヌ民族だったといわれている。一方、弥生・農耕文化は朝鮮半島から入り、九州北部で成立。(なお、関東から西~九州にかけての日本海側漁業民には、縄文人の特質が残るらしい)19世紀末から20世紀初頭にかけてアイヌ文化の研究が盛んだったのは日本よりヨーロッパで、アイヌ人の彫の深い容貌から(縄文人も彫が深い)、ヨーロッパの学者は、アイヌは自分たちと同じ白人種の、インド・ヨーロッパ語族に属すると考えていたそうだが、今は、オホーツクから渡ってきたと考えられている。また、アイヌ語には朝鮮語との類似も見られ、弥生文化との混合が指摘されているし、小規模の農耕、牧畜も行っていたらしい。~参照『アイヌと縄文』瀬川拓郎 『アイヌ学の夜明け』梅原猛

縄文土器が非実用的なアートになっているのに対し、弥生土器が実用的であることを考えても、二つの文化の相違は明らかだろう。「ギブアンドテイク」の弥生文化に対し、縄文は「贈与」。「計画的」な弥生文化に比べて、「直観」の縄文。「常識」を重視する弥生に比べ、「自由」を重視する縄文。「競争的」な弥生文化と「協調的」な縄文文化との違いは大きいが、両方とも日本人のルーツなのである。

アイヌは文字文化を持たず(口承中心)、「直観」を重んじると言っても、某政治家の「理屈じゃねえんだよ」のような暴言とは全く別のもの。アイヌでは何でも話し合いで決めるし、喧嘩がおこりそうになると必ず第三者が仲裁する、などきわめて平和で穏やかな洗練された民族なのである。少しの判断ミスによって、死に至るような狩猟を生業としている狩猟民族のほうが、つまらない争いは避けるし、逆に平和なのかもしれない。「神社は心の中にあるもの」として、そうした建築物を残さないアイヌ文化。魂というものを非常に流動的な繊細なものとしてとらえているせいか、とても音楽的なのである。(ケルトと同じく、魂は再生・輪廻するものと考えている)

藤村久和氏の丁寧なフィールドワークをもとに書かれた『アイヌ 神々と生きる人々』。最近読んだ中でも最も感銘を受けた本。読んでいるうちに、アイヌの人たちの生き方に思わず襟を正す思いだった。

*自己中心の視点を持たず、常に全体の中の自分の視点で考える。・・・自然とともに生き、カラスや鳥の鳴き声、風の音から天気の具合、異変を読み取るアイヌの人々は、観察力に優れ、状況の中で考えることが習慣になっている。状況の中の自分で考えるという事は、全体の中の自分の役割を考えることにつながる。一人一人に、個性を持った守護霊がついていると考えるアイヌにとっては、自分の守護霊を大切にして、自分の長所をできるだけ伸ばすことが何より重要らしい。これは、言い換えれば自分に与えられた能力や個性を伸ばすことなのである。個人の能力には限界があるが、だからこそ最大限にそれを伸ばす。アイヌにとって此の世に無駄なものは何一つない。また、自分の守護霊との対話というのは、「自己内対話」ともいえるのであって、内省と同じものだろう。才能があっても、恵まれていても、それはそうした(守護霊)が憑いているからと考えて他人を羨むこともない。アイヌでは、人も神も上下のランク付けをしないからだ。上下関係のないアイヌの社会と、自分の個性を大切にすることが、アイヌの人々の特質である「欲のなさ」「競争心のなさ」につながってゆくのだと思う。世間的な欲望より、「私はどう生きるか」であり、競争心よりもまず、「自分が何を好きか」、そうした教育って今の日本にとても必要じゃないだろうか?もちろん、スポーツなど競争心に向いている分野はあるけど、競争心だけが強くなるとそれはむしろ弊害だろう。短絡的に何でもみんな同じと錯覚するフラットな社会では、やたらと競争心だけが強くなり、勝ち負けにこだわり、他人の足を引っ張る、他人にケチつけると言った、ドングリの背比べのつまらない競争社会となる。ネットのような、匿名性の一見平等な社会でそれは特に顕著に表れる。競争心だけ強くて、自分は何をしたらいいのかわからない社会・・

アイヌに文字文化がなく、口承文化だけなのは、言葉の情報よりも人と人のリアルなコミュニケーション、経験を重視するからだろう。文字文化、特にネット社会は、「言葉によるわかりやすさ」の反面、人の本来持っている感受性を大きく損なってしまうところがある。また、言葉だけの「わかったつもり」は往々にして、ただの決めつけにしかならず、コミュニケーションの大きな妨げになる。「わかったつもり」は人の話を最後まで聞かず平気で途中で話を遮るなど、人の話をじっくり聞く知性と謙虚さを損なう。音楽を集中して聴く、あるいは、何とか理解しようと一冊の本に取り組むのは、音楽や文学に敬意を払う事であるように、人の話をじっくり聞いて理解しようとするのは、相手に敬意を払う事だろう。失われたのは「見えないもの・わからないもの」に対する人の「謙虚さ」なのである。

アイヌやケルトが「文字文化」を持たなかったのは、物事を流動的にとらえ、「言葉」で固定され得ないものをキャッチして、とても大切にしたからだ。「言葉」で固定する代わりに、鋭い「観察力」を持つことは必然的に芸術を発達させるが、私たちがアイヌ・ケルト文化に学ぶことはたくさんあると思う。

*他人の家にズカズカと踏み込むことを嫌う。・・・アイヌでは核家族で暮らす習慣で、たとえ親子でも相手に干渉することはしないらしい。やはり相手の「主体性」というものを尊重する文化からくるものだろう、もちろん、核家族で暮らしても、御互い思いやったり、いたわったりの相互扶助の交流は盛んなのである。こうした「距離感」を、彼等は自然との付き合いから学んだのじゃないだろうか。木の皮をはいでも、丁寧に手当するというアイヌ。自然に対しても人に対しても、相手を尊重する心が底流にあり、自然相手でも人間関係でも、アイヌに「支配」はない。あるのは「共存」なのである。アイヌは自然も人も簡単にコントロールできないことをよくわかっている人たちなのだ。もちろん、アイヌにもいろんな人はいるのだろう。嫌いな人とは表面的に付き合い、好きな人とは深く付き合うと言うあたりを読むと、温厚なアイヌにも人の「好き嫌い」はあるのだな、とホッとするのである。

~その心は身体に、身体の周辺に出る気に現れるという。~『アイヌ 神々と生きる人々』

つまり、アイヌの人々は人を見るときも、評判とか、肩書きのような「文字」の情報ではなく、自身の直観を働かせて見る。「文字」に頼らない洞察を持っているのだ。そうした洞察のある人が見れば、人の性格、こころや品性というものは決してごまかせない。それはまた、自分を中心にした視点ではなく、全体をよく観察することができるからこそ、そうした洞察を得られるのだと思う。

アイヌでは古代ギリシャ社会のように、「人間の徳」というものが非常に重要視されている。「人間としてどう生きるか」に重点を置いているアイヌの本を読んでいると、競争社会である今の日本社会のほうが、非常に殺伐とした貧しい社会のように見えてくる・・

アイヌのエコロジーは徹底していて、採った鮭の皮で靴も作ってしまう。無駄な殺戮は決してしないし、自然や人を大切にするように、モノにも愛情を持って大切に扱うのでゴミをほとんど出さない。川の神様がいるので、洗濯物などで汚れた水は川に流さないらしい。それに比べて、家電製品や衣服,家具など使い捨て感覚で消費して暮らしている私たち・・(今、大量のゴミは、地球の大きな問題になっている)便利で新しいものがいいとばかりに、古いモノを大切にしない使い捨て文化と同時に人間関係でも、人を人とも思わないような人間が増えてきたのは、何か関係あるんじゃないだろうか。私たちに、アイヌのような徹底したエコロジーは無理としても、せめて、大量消費と大量のゴミの使い捨て文化は見直した方がいいかもしれない。

毎日のネットやニュースの情報過多に疲弊している私から見れば、風や木々の囁き、鳥やカラスの鳴き声の微妙さから情報を読み取るアイヌの生き方をとても優雅。しかし、哀しい事に私にはそうした繊細な感受性は失われている。

「銀の滴降る降るまわりに・・」は、19歳で世を去った知里幸恵さんの『アイヌ神謡集』から。フクロウの神様が、貧しくて苛められている子供の家に美しい宝物をプレゼントする話。「銀の滴降る降るまわりに・・」を読んでいると、今、増えている貧困の子供、いじめを受けている子供、周辺に追いやられている生活苦の若者の事を思わず考えてしまう。フクロウの神様なので、長いスパンで見た人の栄枯盛衰をよく分かっている、今、どんなに辛くても、そのうちにきっと幸福がやってくるという希望を与えてくれるのがフクロウの神で、貧しき者は幸いなり、なのである。また、苦しみは神から与えられた試練という考え方も、キリスト教に近いものがある。

知里幸恵さんの序文が、詩と同じくらい素晴らしい。

・・天真爛漫な稚児のように、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児。何という幸福な人達であったでしょう。~中略~時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく、激しい競争原理に敗残している今の私たちの中からも、いつかは二、三人でも強いものが出てきたら,進みゆく世とあゆみを並べる日もやがては来ましょう。それはほんとうに私たちの切なる望み、明け暮れ、祈っていることでございます。『アイヌ神謡集』

『アイヌ神謡集』はすべて、フクロウ、キツネ、狼など神の視点から書かれている。アイヌ文化は人間中心の視点だけじゃなく神の視点を想定する、ポリフォニーの世界。たとえれば、バッハなのである。人間中心、自己中心の視点しか持たなかったために、気候変動、その上に経済の停滞など深刻な問題を抱えている私たち。競争心を持たない為に周辺に追いやられてしまった平和なアイヌの人々。むしろ今は、私たちのほうから、自然とも人とも共存する知恵を持っている彼らに教えを乞わないといけない時代に生きているんじゃないだろうか?



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