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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №90 [文芸美術の森]

      ≪鈴木晴信≪機知と抒情と夢の錦絵)≫シリーズ
           美術ジャーナリスト  斎藤陽一

          第4
回 銀杏娘 お藤

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≪楊枝屋の看板娘 お藤≫

 鈴木春信は、前回に紹介した「笠森稲荷のお仙」とならんで、当時、江戸で評判だったもう一人の娘も描いています。
 上図は、鈴木春信が、明和5~6年ごろに描いた錦絵「風流江戸八景・浅草晴嵐」。
店先で、客の若侍の応対をしているのが、その娘です。

 彼女は、浅草奥山(浅草寺の裏一帯)にあった楊枝屋「本柳屋」の看板娘・お藤。
春信は、楊枝屋の店の様子をかなり細かく描いており、実景に近い描写と思われる。この楊枝屋は、銀杏の木の下にあったので、お藤は「銀杏娘」という愛称で呼ばれていました。この絵に描かれた店の土間には、ちゃんと銀杏の葉っぱが落ちています。

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  このお藤の顔つきも、お仙と同じように描かれているので、個性を超越した「春信調」としか言いようのない女性像となっています。
 春信は、ひとりひとりの女性を写実的には描こうとはしない。
 言い換えれば、春信は、若い娘のたおやかさと、ほのかに匂いたつような色香を抽出して、このような風情の女性像に昇華させた、と言えましょう。

 看板娘のお藤目当てに、この楊枝屋に通う客も多かったといいます。そこで、こんな俗謡も作られました。

 「用事(楊枝)もないのに用事をつくり、今日も朝から二度三度」

 では、「笠森稲荷のお仙」と、「銀杏娘お藤」のどちらがより器量よしだったのか?

 女性の容貌を描き分けない春信の絵ではよく分かりませんが、当時のわらべ唄にこんなものがあったといいます。

 「なんぼ笠森お仙でも、銀杏娘にゃかなやしまい」

 もっとも、当時名高い文人だった太田南畝(蜀山人)は、「実は、笠森の方、美なり」と、お仙に軍配を上げています。
 こんな具合に、町々の器量よしの娘たちが人々の話題にのぼり、浮世絵に描かれたり、はやり歌になったりする、当時の江戸のようすが彷彿としてきます。

 余談ながら、「銀杏娘・お藤」については、つぎのような話が伝えられています。
 彼女は、もともと武士の娘だったと言いますが、彼女の兄が放蕩者だったため、藩勤めをクビになり、兄妹一緒に江戸に出てきた。そして、兄を養うために、浅草の楊枝屋に勤めに出たところ、たちまち「看板娘」になった。
 やがて兄貴は藩への帰参がかない、お藤は兄ともども郷里に帰り、国元で結婚したというのです。

 さて、この回の最後に、春信が江戸で評判の二美人「お仙とお藤」を1枚の中に描いた錦絵「秋の風」(下図)を紹介しておきます。

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 左が笠森お仙、右が楊枝屋「本柳屋」のお藤です。この二人の仕草は、先行する絵本から借用しており、その絵本には:
   「萩すすき 露わに見する野分かな」(花朝)
という句がつけられています。この絵は、この句も踏まえています。
 「はぎ」は「萩の花」と「ふくらはぎ」をかけており、「すすき」は秋の草であると同時に、江戸時代の隠語では「恥毛」を意味していました。
 そのようなことが分かる人は、二重に楽しめるという、エロチックな美人画なのです。

 次回は、また、春信らしい、情緒あふれる錦絵を紹介します。
(次号に続く)



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