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山猫軒ものがたり №2 [雑木林の四季]

山猫軒は森の中 2

              南 千代


 水は井戸水、庭からは一軒の家も見春、まだ、タヌキやキッネがウロウロしている、と言うと、周囲はみな複雑なまなざしで私をみつめた。
「大丈夫、そんな所で暮らしていけるの?」
 そんなこと、暮らしてみなきゃわからない。でも、別に、南極や月で暮らそうというわけじゃあるまいし。田舎といっても、わずか新宿から電車で三十五分の地である。
 生活環境が都心とは大きく異なるために、物理的な距離で、とても離れているように感じてしまうらしい。
「一カ月もすれば、また都会の生活が恋しくなって帰ってくるわよ」という友人たちのことばに見送られながら、「そうかもね」と笑いつつ、私たちは気軽に都心を離れた。古い富家での暮らしがどんなものか、ごく普通のサラリーマン家庭に育った私には想像もつかなかった。その分、たいした不安も覚悟もいらなかった。
 夫と違い、空気と水のうまい生活をとり立てて望んでもいなかったが、少なくとも、これまでとは違う暮らしが待ち受けていることだけは予測でき、その未だ知らぬ昔に心惹かれていた。
 都心に通える距離であったため、仕事か暮らしか、と二者択一に迷う必要はなかった。仕事の場はそのまま麻布におき、オフの日には山歩きや家の修理をすることから、小野路での生活がスタートした。
 実際、家はあきれて楽しくなるほどのポロ家で、壁のあちこちから青空がのぞいている。奥座敷の簡素な床の間からは、床下から生えてきた笹が顔を出し、生け花のふりをして隙間風に揺れていた。花を生けなくてもすむので、そのままにしておいた。
 裏の薮で竹を伐り、風流を気取って青竹の器で食事をしていたら、大家のばあさんが訪ねてきた。家主は、山向こうの便利な地に、新しく家を建て直して住んでいた。
 ばあさんが驚いた顔をする。勝手に竹を伐ったので怒られるかなと覚悟したが、世間話をしてお茶を飲み、帰っていった。しかし、次にやってきたとき、ばあさんは抱えた包みを差し出して私たちに言った。
「引っ越し祝いによ、持ってきたんだ。使ってくんなし」
 小さな花柄の、真新しい皿のセットだった。ばあさんは、私たちが青竹で食べているのを見て、器を買う金もないのだと同情してくれたらしい。おまけもあった。
「そこの神社の寄り合いで使ってた茶碗だ。古いけんど、まだまだ使えるべ」
 藍の染め付けの、茶碗である。いいのかな、こんな器もらっちゃっても。でも要らないらしいし、ありがたく項いておこう。
 大家は、律儀でことば少ないじいさんと、世話好きで人のよいばあさんの夫婦である。庭の隅に建っている納屋は、古い農機具などを入れたり小麦を保管するのに、大家がまだ使っている。ばあさんは、時々やってきては、納屋を開けがてら野菜を置いていったり、私たちが家の修理をするのを眺めていった。
 夫は、腐り始めていた和室の床板を張り直したり、隙間だらけの土壁を石膏ボードで補修する作業を嬉々としてて進めていた。風呂は、台所の裏にコンクリートのたたきだけが残っており、浴槽はなかった。
 バスタブを設置するまでの間、風呂は、台所の湯沸かし器の蛇口にホースをつけ、風呂場まで引っぼってきて簡易シャワーとした。これはいいアイデアだと、最初は二人で喜んだ。しかし、湯は急に熱くなったり冷たくなったり。温度が一定せず、その度に私たちは悲鳴をあげなければならなかった。
 家の修理も風呂造りも、業者に頼めば早く片づくだろうが、こんな所にやってきて修理をしてくれる業者など見つけようもなかった。
 ストーブの前に座って、夫は一枚の板を彫っていた。何を彫っているのだろう。
「表札にでもしようかな、ちょうどいい大きさだ」
 と啓う。表札には名刺が要るのであった。
「人の名前を細かく彫り込むのはむずかしそうね。それに、せっかくの手づくりにするにはあまりおもしろくないアイデアみたい」
 と、私。
 そこで、この家に何か楽しい屋号をつけて、その名を刻もうということになった。麻布のスタジオ名であるアトムスを漢字にして亜土夢巣、の案も出た。が、夫にしてみれば大好きだった鉄腕アトムから付けたこのスタジオ名も、英語では原子。原爆をイメージさせるので海外では不評とか。ポツ、となった。
 考えあぐねて、私はそばに寝そべっていたウラをつついた。ウラはふてぶてしく「ニヤア」と言い、青い目を開いた。
 この黒猫は、夫がこの家を借りたついでに、友人から頼まれてもらってきた雌猫である。六歳。小学校の裏で拾ったということで、名前はウラ。私よりひと足先に、ここで暮らし始めていた。
 そのせいか、私に威厳を保ち、一緒に暮らしてはいるけれど甘えるそぶりもなく、まるで私のことを、召し使いに対するような目つきで見る.
 ざわざわと山を渡る風。こつ然と現れた、一軒の家。迷い込んだ人間を、翻弄するように光る、猫の青い目玉。
 何かの童話にこんな話があったような……。家の名前は「山猫軒」。屋号が決まった。私たちは、宮沢賢治の物語「注文の多い料理店」に出てくる店の名を、拝借することにした。
 夫は表札に「山猫軒」と彫り込み、木戸に掛けた。

『山猫軒物語』 春秋社



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