SSブログ

雑記帳2022-9-1 [代表・玲子の雑記帳]

2022-9-1
◆名古屋東区の白壁、主税、撞木町界隈は、「文化のみち」と名付けられて、江戸時代は中級武士の屋敷町でした。

明治期には近代産業の発祥の地、文教ゾーンのさきがけとしてさかえ、大正期に多くの中部財界人がここに邸宅を構えました。大正ロマンの香漂う邸宅が点在した街並みは、今も時代を超えた面影をのこしています。その一部をご紹介しましょう。

名古屋城から東に2キロの地にある文化のみちで、先ず目に入るのが主税(ちから)町筋にあるカトリック主税(ちから)町記念聖堂です。

カトリック記念聖堂2 のコピー.jpg
カトリック主税町記念聖堂 礼拝堂と鐘楼

東海地方最古のこのカトリック教会は、明治20年(1887)、士族の屋敷を購入し、長屋を聖堂として改造したのがはじまりでした。明治37年、現在の聖堂の原型となる礼拝堂が建てられ、明治42年にはルルドの洞穴を再現したとあります。

19世紀に、フランスのルルドに聖母と共に現われた泉が数々の難病をなおす奇跡を起こしたという言い伝えに倣い、バチカンにその模型がつくられたことから、世界中に「ルルドの泉」がつくられるようになりました。日本では、五島列島の福江島にある井持浦教会に続いて、実は名古屋主税町のこのルルドの洞穴が2番目に古いのだということです。

カトリック記念聖堂6 のコピー.jpg
日本で2番目というルルドの洞穴

教会敷地の北側、主税町筋沿いに設けられている煉瓦造りの塀は、総延長29メートル、高さが2.1メートル。切り石が2段積まれた上にイギリス積みで設けられています。そういえば、富岡製糸場の塀はフランス積みでした。
イギリス積みとは。煉瓦の長手(長い面)だけの段、小口(短い面)だけの段を交互に積み上げる方式です。先に導入された、長手と小口を交互に並べていく方式のフランス積みとくらべて強度が高いとされ、普及しました。
信者会館、司祭館とともに、聖堂の煉瓦塀は、国の有形文化財に指定されています。
礼拝堂は何度も改修されたため国の文化財には指定されませんでした。

カトリック記念聖堂5 のコピー.jpg
      信者会館
カトリック記念聖堂7 のコピー.jpg
煉瓦塀

カトリック聖堂をあとに主税町筋を歩けば、大正時代に建てられた実業家の屋敷が料亭やレストラン、結婚式場になって並んでいます。

主税町筋香楽 のコピー.jpg
「香楽」と言う料亭 お昼は13,000円から
主税町筋春日鉄次郎邸 のコピー.jpg
春田鉄次郎邸 1階がレストランDubonnet

そのさきにあるのが豊田佐助邸。
発明王豊田佐吉の実弟豊田佐助の邸宅だった建物を名古屋市が所有者から無償で借用し、一般に公開しているものです。所有者の、現在のアイシン精機社長豊田稔氏は、豊田佐助の長男にあたります。

豊田佐助邸2 のコピー.jpg
豊田佐助邸

当時、豊田佐吉邸周辺には、白壁町にトヨタ自動車を創業した豊田喜一郎、初代の豊田自動織機製作所社長を務めた豊田佐吉の婿養子・豊田利三郎の邸宅もあり、豊田ファミリーが集結していましたが、現存するのはこの豊田佐助邸のみだということです。
豊田佐助邸が建てられた大正時代は、第1次世界大戦による好景気を背景に、大正7年に豊田紡織、大正15年には、豊田自動織機を創業した、トヨタグループの発展期でもありました。

大正12年(1923)に建築された、木造2階建の洋館と和館から成る建物は、白いタイル張りの洋館を主屋に、和洋折衷の建築となっています。
戦後の一時期、米軍に接収され、高級将校用住宅として使用されていたこともありました。
洋間のシャンデリアや上げ下げ窓は当時のまま保存されています。また、和館は田の字型の部屋割りとなっており四方が廊下に囲まれているのが特徴です。田の字型の部屋割りは後で述べる撞木邸にも見られました。

豊田佐助邸11 のコピー.jpg
1階洋間
豊田佐助邸8 のコピー.jpg
2階客用の座敷のふすまには近江八景が描かれ、部屋の明かりを消すと金が浮き上がってくる贅沢なしかけ

名古屋を代表する産業のひとつに、陶磁器があります。
陶磁器の生産地で有名な瀬戸・多治見の両街道や堀川にも近く、船積みにも便利だったことから、明治半ばには陶磁器の絵付け・加工業者などが集まるようになりました。昭和初期には、600をこえる上絵付け工場があり、最盛期には、日本で作られた輸出用の陶磁器の7〜8割が、この地域で生産(絵付け加工)されていたと言います。

陶磁器商として活躍した井元為三郎が、大正末期から昭和初期に建てた当時の様子をよく伝える邸宅が今、「文化のみち 撞木館」になっています。600坪という武家屋敷の、大きく区画割りされた敷地に和館、洋館、東西二棟の蔵、茶室、庭園が残されており、平成8年に名古屋市有形文化財、平成20年3月に景観重要建造物に指定されました。

橦目館 のコピー.jpg
撞木館
橦目館5 のコピー.jpg
田の字型の座敷

橦木館の洋館にはステンドグラスが贅沢に使われており、為三郎は輸出陶磁器の商談を行うため、多くのバイヤーを招待していたと言われています。

多くの古い邸宅が壊されていくなか、橦木館は。一次閉鎖されたものの、市民団体によって管理され、市民による様々な活動が行われています。昭和初期の「歴史・文化」に触れ、そこから新しい「文化」を発信するのがねらいです。

橦目館6のコピー.jpg
洋館の一部はカフェに利用されている

中部財界人の中で、電力王と呼ばれた福沢桃介を忘れることはできません。
福沢諭吉の娘婿として福沢家に養子に入った桃介は電力以外にも多くの事業をてがけました。その桃介が後半生の伴侶としたのが、川上音二郎の未亡人だった川上貞奴でした。貞奴は女優だっただけではなく、実業家でもあり、桃介の事業のパートナーでもありました。そして、二人のために名古屋市二葉町にたてた邸宅が、現在、文化のみち二葉館になっています。文化のみちエリアの北端にあたります。

二葉館 のコピー.jpg
二葉館

約2000坪の敷地に建てられた和洋折衷お建物は、その斬新さと豪華さから二葉御殿と呼ばれ、政財界人や文化人のサロンになっていたといいます。大広間のステンドグラスや二階に通じる見事な螺旋階段に、客は先ずおどろいたことでしょう。
さすが電力王だけあって、当時としては珍しいオール電化の邸宅でした。自家発電装置も備え屋根にはサーチライト、電気じかけの噴水もありました。
屋敷は二人が暮らすためだけではなく、桃介の電力を造る事業の拠点として、文化人を接待する目的もあったわけですが、まさに、電化モデルハウスなのでした。

二葉館3 のコピー.jpg
広間のステンドグラス
二葉館5 のコピー.jpg
広間からは螺旋階段で2階へ。左の暖炉は薪ではなく電気で熱をとった

この日の夕食は岐阜市内にある「たか田八祥」で懐石料理をいただきました。

たか田3 のコピー.jpg
    先付  銀杏、枝豆、蓮根、シイタケの白和え
たか田4 のコピー.jpg
   又  焼きトマトとハモの黒酢和え
たか田5 のコピー.jpg
 造り  鯛、烏賊、海老、鮪、泡醤油
たか田6 のコピー.jpg
      うなぎと冬瓜のスッポン仕立て  手前はおぼろ昆布でまいた茄子
たか田7 のコピー.jpg
    アオリイカの大葉寿司
たか田8 のコピー.jpg
郡上八幡吉野川産の鮎の塩焼き 蓼酢
たか田9 のコピー.jpg
 ジャガイモのはりはり
たか田10 のコピー.jpg
海老しんじょうの揚げだし
たか田11 のコピー.jpg
青のり茶漬け
たか田12 のコピー.jpg
デザート

   

nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。