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梟翁夜話 №118 [雑木林の四季]

「松蔭は万次郎に勝てなかった」

        翻訳家  島村泰治

話は幕末、蘭語(オランダ語)の知識を借りて英語のcome hereがコメ・ヘレと読まれてゐた頃のことだ。外つ国の言葉は何か大変なもののように見へ、とくに黒船の威圧感からか、英語は並々ならぬ言葉に思へて、日本人は身構へた。さう、座り直して身構へたのだ。どうもフルヘッヘンドとは違ふ音がする、と、賢い日本人は蘭語とはひと味違ふ新手の外国語、英語と改めて向き合った。

西洋の文化を掛け値無しに先進のものと錯覚した日本人は、英語をそのツールとして大いに奉ったのだ。その瞬間から、日本人の英語へのどこか萎縮した姿勢が根付ゐた。何か滅法難しいもの、その会得には並々ならぬ勉強が必要だと思ひ込んだのである。

さう、初っ端から腰が引けてゐたのだ。蘭語とは似てゐて、似てゐない、蘭語の素地があるものは文字面には驚かぬが、音感が大いに異なることに戸惑った。初めて英語を聞いた明治の先人たちは、べらんめえ調の蘭語かと思ったに違ひない。いまひとつ他所の言葉が出現して大いに慌てたらう。

後年に万次郎が著した辞書を見ると、そんな語調が訳語の発音表示に顕れてゐて面白い。耳から入った英語の音をどうカタカナ化するか、なかなか読み応へがある。万次郎の功績を語るのはいまさら感が漂ふが、あの様な状況から一念発起、読み書きまで覚えてわが外交面に一臂を貸した働きはたしかに凄い。例の辞書から遡及して彼の英語力を推し量るのは何とも愉しい。

幸便だが、万次郎に比して引けを取らぬ人物にジョセフ・彦と云ふ日本人がをるのをご存知だらうか。万次郎と同じ漂流の身を助けられた人で、これも同じくアメリカに渡って米語に馴染み、万次郎とはやや違った生き方で日米関係に貢献した。筆者は留学時に某人にそれと教えられ、彦の伝記を求めて読んだ。英語に実地に触れた日本人は万次郎一人ではなかったことを覚えておかれたい。

英語に触れるきっかけが如何に肝要かということ。この点をお話しするために二人の話を冒頭にあげたのだが、二人とも所謂インテリではなく学に乏しかったことに注目されたい。さらに、ともに先ずは耳から英語の洗礼を受けたことを考へて欲しい。だからこそ、万次郎など外交面で補佐役にもなれたのだ、と。勿論多くの場合通弁(通訳)としてのそれだっただろうから、実質的な貢献がほどほどに大きかった。

仮にの話だが、あの吉田松陰が思惑通りに米船に取り込まれて渡米してゐたら、果たして万次郎や彦ほどの成果を挙げられただらうか。筆者は必ずしも是とは言ひ難い。理由は至極簡単だ。松陰ほどの英才だ、相当に蘭語の嗜みがあったはずだから、英語に先ずは文語として向き合ひ、いくばくか会得していた蘭文法の知識を動員して耳より目を頼ったかも知れぬ。つまり、渡米後の松陰は聞くより読む側に意識が傾きはしなかったか、と云ふことだ。英才だから読むも聞くも隔てなく取り込んだとも云へやうが、松陰なら己の才に依って文字に偏ったと想像する。

文字に偏ってなぜ悪いなどと問われるな。耳学問を蔑むものがあるならば、其の者は「言の葉」の何たるかを知らぬ凡人だ。言の葉は書き言葉だけではない、話し言葉にはそれに纏わる文化を包含するトータリティーがあるということだ。それは有機的なもので、日々の生活臭が匂ひ、箸の上げ下げの機微までもが含まれる。それは話し言葉にのみある妙味であり醍醐味なのだ。

だから、仮想的に万次郎と松陰を並べて言の葉の上達度合ひを測るならば、ほぼ完全に万次郎に分があると踏んでいい。前述の如く、その理由は簡単だ。言葉は言の葉、つまり有機的なツールで絶えず新陳代謝を重ね、滔々と流れているもので、口伝えでこそ生命感が保たれるものだ。文字が皆無の上代に人が何の支障もなく生きておられたのも、それがあったればこそだ。文字は便宜上の符号で、刻々たる人の生業は語りで十分に足りた。

これを言ひ換えれば、松蔭ならずとも万次郎や彦たれ、と云ふこと。文字を疎かにしてよいわけはない。ないが、言の葉を会得する一義的なメソード、つまり聞き語る慣わしを措いてまで文字を追ふのは愚の骨頂だ。冨士登山に例えれば、登り口は聞き語りであるべきで、その道を登り始めて足場に慣れてきたら、そこで文字ならどうすると云ふ次元に入ること、これが英語会得の捷径であり王道なのだ。話し言葉は文化そのもの、先ずその全てを包含し取り込んでこそ純に会得できるものだ。


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