SSブログ

海の見る夢 №38 [雑木林の四季]

                     海の見る夢
          -敗北を抱きしめて―
                澁澤京子

 ~精神なき専門人 心情なき享楽人~
                   マックス・ウェーバー

 日本って、実はいまだに敗戦のままなのかもしれない、と思ったのはイラク戦争の時。もちろんテロは許されることではないが、同盟国とはいえ、なぜ何の躊躇もなくイラク攻撃に加担しないといけないのだろう?なぜ、極めて親日的である中東を日本はあえて敵に回さないといけないのだろう?と、素朴に疑問に思ったのだ。それゆえ、その後の安部元総理の「美しい日本」も「桜」も、実は敗戦後の占領されたままの、不都合な日本を隠すための、厚化粧としか思えなかったのである・・

過去や自分自身と真摯に向かい合える人は、人のどうしようもなさがわかるようになる。それは人間がわかるということであって、大人になることであり、懐の深さを持つようになることだろう。自分自身と向かい合えなければ、何かと被害者意識を持ちやすく、あくまで自分は正しいと盲信し、他人を叩くことであるかなきかのプライドを維持するようになる。それは学歴や出身とは全く関係なく、人間的に成熟しているか、未熟なままかの問題だろう。未熟な人間は、よくネットで見かけるが、他人の揶揄をするだけ、揚げ足を取るだけの、自己の主張も立場も明確にしない安易な方法で、他人の優位に立とうとするのである。

言葉で説明するのが難しい、もやもやした領域というのがあって、現実は結構この「もやもや」によって構成されているのであり、「もやもや」を発掘していく作業が文学じゃないかと思う。自分と向かい合うという事は、語り得ないこの「もやもや」の領域、得体のしれないものと向かい合うということなのである。

最近、松本清張原作の映画を立て続けに見た。自分の過去を隠したいために起こった殺人事件『砂の器』『ゼロの焦点』、人間関係の修羅場と幼児虐待『鬼畜』、不倫によるサラリーマンの思いがけない転落『黒い画集』、汚職事件の責任を押し付けられ(故・赤木さんを連想させる)自殺に見せかけた他殺事件『点と線』、企業を騙す詐欺事件に引っかかり自殺する実直なサラリーマン『眼の壁』、貧しさから起こった殺人事件『張り込み』など。最近の日本映画にはなかなかない迫力と面白さなのである。

昭和30~40年ごろの地方都市や東京が出てくるが、昭和の風景にはまだ生活感が漂っている。夏の暑さは扇風機でしのぎ、「どうにもこうにも、こう暑くっちゃあ、叶わないね」(宮口精二)と言いながら団扇でパタパタと扇ぎ、若い女はウェストの細いスカートを穿き、東京でもまだ着物に割烹着の女がちらほらと歩いていた。ラジオからは浪曲や民謡、歌謡曲が流れ、商店街ではチンドン屋がジンタを流し、不良少年は部屋でジャズのレコードを聴き(当時はジャズの最盛期)、夕方になると街のあちこちの電燈がポツンと灯る。夜の街は今よりもずっと暗くて、巷の風景はどこでも陰影があり、まだ貧しさというものが色濃くそこかしこに残っていて、誰もが(哀しみ)という感情を心の底に持っていた時代なのである。生きていくだけで精一杯の貧しい生活でも、その頃の生活風景にはまだ情緒があった。

出演する俳優も皆、地に足の着いた感じの生活感があり、つくりものめいた不自然なところがまったくない。『鬼畜』の緒方賢、『黒い画集』『白と黒』の小林桂樹、『張り込み』の宮口精二、『砂の器』の加藤嘉、『飢餓海峡』(原作・水上勉)の三国連太郎、哀愁漂う刑事役の伴淳など、人の持つ複雑で多様な表情を見せることのできる素晴らしい役者ばかり。登場人物がどんな生い立ちだったのかも、こちらにリアルに伝わってくるような演技力。俳優はもちろん、監督も脚本も、ものすごくレベルの高かったこの頃の日本映画。レベルが高いのは、俳優も演出家も監督も、おそらく人間というものをきちんと見つめていたからだろう。そして、犯人も追い詰める刑事も、加害者も被害者も、人であるということは哀しいことなのだ・・ちなみに最近の俳優で、微妙な表情の中に様々な風景を見せることのできるのが、安藤サクラ、深津絵里、妻夫木聡、山田孝之、でこれからの活躍が楽しみなのである。

松本清張の小説は、ドキュメンタリーも多いが、フィクションでも、地に足の着いた話が多く、それは松本清張自身がしっかりとした生活者感覚を持っている大人の作家だからだろう。

子供を連れた愛人(小川真由美)が生活費を請求しに、血相を変えて男の家に怒鳴り込むところから始まる『鬼畜』。男の工場の経営が思わしくなく、愛人への送金が途絶えがちになったのだ。男(緒方賢)はなすすべもなくオロオロし、愛人は男をさんざん責めたあげくに、幼い子供たちを押し付けてそのままいなくなる。自分の子供ではないから厄介と、平然と幼い子供たちの虐待をはじめる妻(岩下志麻)の能面のような無表情が凄味がある。浮気の負い目から妻の言いなりになり、次第に自分も一緒になって子供を邪険に扱うようになる気の弱い男を演じる緒方賢が見事。あるいは、汚職事件の責任を押し付けられて殺される役人の話、企業詐欺に引っかかり、責任を感じて自殺してしまう実直なサラリーマンの話とか、今でも、どこにでもあるような話ばかりなのである。常に皺寄せが来るのは弱者で、声もあげられないまま消されてしまうところは時代が変わってもまったく変わらない。敗戦後、まだ貧しく人心が荒んでいたから起こった事件なのではなく、幼児虐待などは、今では頻繁に起こっている事件なのだ・・駅や古いビルが壊されて街の見かけがどんどん整備され、表面的には新しく明るくきれいになったが、近代的な都市の仮面の下には、そうした物言わぬ弱者の犠牲や人間関係のドロドロが相変わらず存在するのである。

「純粋さのみが悲惨を見つめうる」~シモーヌ・ヴェイユ~の言葉のように、大人の非道・残酷を最初から最後まで黙って見つめて、父親から崖から突き落とされたのは、実の母親にはお金の口実として利用され、継母にも父親にも虐待された五歳の男の子『鬼畜』。ストレスに弱い未熟な人間が増え、幼い子供かホームレスのような無力な人間がストレス発散のターゲットにされ、犠牲になるようになってきた。真実を見るのは、常に物言えぬ弱者や底辺にいる無力な人々なのかもしれない。

安倍元総理の綺麗ごとの「美しい日本」には、ピノキオの「遊びの国」のような、はりぼての遊園地、表面的な明るさや幸福だけがあり、それは夢中で遊んでいるうちに全員が愚かなロバ(従順な家畜)にされてしまうような、薄気味悪い幸福なのである。

いまだに未解決の下山事件や帝銀事件など、(もはや戦後ではない)と言われた高度成長期に、松本清張は日本の戦後史の闇に焦点を当てて多くの作品を残している。下山事件、帝銀事件とGHQが関係していた、解決しないまま忘れ去られようとした事件を何とか発掘して残そうとしたのだろう。

帝銀事件の、犯人の似顔絵はなんだかとても怖い。実際の容疑者となった平澤画伯の写真を見ると、鼻の高い細面、彫の深い美男で、優男風のところは似顔絵と似ているが、似顔絵のような、目が細くのっぺりとした不気味な感じはない。(犯人目撃者のほぼ半数が似ていないと言ったらしい)しかし、平澤画伯には、過去に何回か、実際に銀行で詐欺事件を犯した事があり、また脳の病気のために虚言癖があり平気でウソをついたり、その話し方もいかにも芝居じみた不自然なところがあったため極めて疑わしい人物とされた。また、帝銀事件の後、なぜか急に預金が増えたことも犯人とされる決め手になった。供述が二転、三転したのは、当時の強引な誘導尋問に引っかかったのか、あるいは病気のためか、人に余計な不信感を持たせてしまうような人物だったのだ・・

~平澤画伯は、暫く考えて沈思していたが、急に膝を打つと顔をあげて「ああ われ老いたり」と記憶力の減退に嘆声を発したのである。~『小説帝銀事件』松本清張

「ああ われ老いたり」の嘆声のほうが、「知らなかった」と平気で開き直る政治家よりも、ずっと可愛いと思うが・・

平澤を真犯人と仮定して疑問が残るのは、犯人の持っていた化学薬品の知識、感情の起伏の激しい芸術家肌の人物が、極めて冷静沈着な手慣れた手つきで毒物による大量殺人を犯すことができたのか疑問なこと、計算されつくした計画的な行動であったこと、平澤にはGHQに知り合いがいなかったこと(犯人はGHQの実在人物の名前を出した)、そして何よりも不審なのは、731部隊関係への警察の捜査に対して、途中でGHQなどの政治的な圧力がかかったことだろう。(当時、731部隊はGHQの管轄にあり日本の警察は手が出せなかった)

何年か前、新宿区戸山で百体以上の人骨が地中から発見された事件があった。戸山ハイツは通っていた大学のすぐ近く。戸山ハイツの隣には空地になった広い原っぱがあって、授業をさぼって柵をくぐり抜け空き地に入り、その頃仲良かった友人(いつもみすず書房の本を抱えていた)と、よくお昼を食べたり、煙草を吸ったり、くだらないおしゃべりをして過ごしていたが、あの、広い野原一帯に人骨が埋まっていたとは!無数の人骨の上でピクニック気分だった、大学生の私・・そういえば、旧日本軍の研究施設の入り口みたいなものが駅から大学に向かう途中の道沿いにもあったような気がする。

731部隊。旧満州の防疫のための医療関係者が集められることになり、軍から莫大な研究費が出るので東大、京大など各大学医学部が争って参加。それが731部隊の始まりで、年に1000万(今の約300億くらい)の研究費が出ていたという。次第に、日中戦争で旧日本軍に反抗していた捕虜になった匪賊を、細菌兵器開発のための人体実験の対象にするようになる。(そのうち捕えられた普通の民間人も対象に)戸山で発見された人骨は731部隊から送られたものと言われているらしい。人体実験の内容は耳をふさぎたくなるような残虐なもので、(資料は殆どアメリカに保管されている)その研究成果をアメリカに渡したために、731部隊の人体実験は東京裁判では免責された。帝銀事件での、青酸カリの飲ませ方は、731部隊が捕虜(丸太)に毒を飲ませるやり方と全く同じらしい。(人体実験に使われる中国人、ロシア人はマルタと呼ばれ、一本、二本と数えられていた)終戦と同時に、良心の呵責に耐えきれず、自殺した研究者もいたし、一生その記憶に苦しんだ関係者もいた。人の良心は、環境によっていくらでも鈍化されるが、人間の心を失わない者も少数いたのである。人体実験も、ひとり残らず殺すそのやり方も、常に整然とした秩序のもとに行われ、そこに狂気を感じる。(ナチスも常に秩序だけは厳しく守られていた・・ヒトラーが異常なほどの潔癖主義者)

ナチスが囚人を番号で呼んでいたとか、731部隊の「マルタ」とか、人を人とも思わないところは、ヘイトスピーチの侮蔑・罵倒語と変わらないだろう。

松本清張の小説には、己の過去・過失を知られたくないために人を殺してしまう話、過去とも自分とも真摯に向かい合えない為に起こる悲劇がよく出てくるが、東京裁判でうやむやにされ、隠ぺいされた日本の負の歴史が、そこに反映されているんじゃないだろうか?

改憲すれば日本は自立した国になるといっても、統一教会の改憲草案と同じ教義で、日本の自立は本当に可能なのだろうか?(軍事力はアメリカに利用されるだけでは?軍需産業が入り込んでくるだけなのでは?)それに比べると、GHQ穏健派のケーディス大佐も関わったとされる今の平和憲法の方が素晴らしいと思うが。戦後、アメリカのGHQ穏健派とタカ派の争いが日本で起こったが、GHQ穏健派は日本を理想的な民主主義国にしたかったのだ。(労働組合と手を組もうとしていた穏健派とタカ派G2が対立、穏健派は敗れてアメリカに帰国させられた・・下山事件はタカ派G2と日本の保守派が絡んでいる事件)平和憲法は決して押し付けられた憲法とは思わない、私たちが平和憲法を選んで大切に守ることによって、はじめて私たちの憲法になるんじゃないだろうか?

ジョン・W・ダワーの『敗北を抱きしめて』は敗戦後の占領期の日本の、米国人ジャーナリストによって書かれた優れた記録であるが、ある日、ふっとそのタイトルが、タルコフスキーの映画『ノスタルジア』のあるシーンと結びついて浮かんできた。映画の最後のほう、イタリアの廃墟の温泉地で、ろうそくの灯りを消さずに、水たまりのあるプールを4往復すれば、世界は救済されるというシーンがある。風で火が消えないように手で覆い、男が注意深く持って歩いたあのろうそくの火は、もしかしたら「敗北」の象徴なのかもしれない。つまり十字架のことなのだ・・人の哀しみも敗北感も、ずっと持ち続けているのは難しい、しかし、そうしたものがなにもないまま、どうやって人は救済されるのだろうか?(武満徹がタルコフスキーのために作曲した「ノスタルジアに捧ぐ」は素晴らしい)

どんな人にも欠点や過失、暗さや弱さというものがあるだろう。人間の感情の根底には「哀しみ」が流れていると思う。それらを隠すのじゃなく、むしろ自身のそうしたものを受け入れて、自覚することによって、人ははじめて浄化され、人間として成熟することができるんじゃないだろうか。

沈黙があるから音楽が生きるように、哀しみや敗北感のような負の感情があるから、人は希望を持つのだと思う。そして、人間のしょうもなさをよく知っているからこそ、人は「理想」というものを持つのではないだろうか。理想も希望も絶望も消えてしまった空虚な世界には、蛍光灯のような殺伐とした明るさが、ただ一面にぼんやりと果てしなく広がっているだけなのであって、そこにあるのは、あくまで退屈で薄っぺらな幸福だけだろう。


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。