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雑記帳2022-8-1 [代表・玲子の雑記帳]

2022-8-1
◆埼玉県は『鎌倉殿の13人』ゆかりの地です。『知の木々舎』』では、原田感爾さんの『多摩のむかし道と伝説の旅』で、武蔵嵐山一帯の、悲運の武将の里道が紹介されました。

北条氏を執権として幕府を動かす体制が固まるまでには。NHK大河ドラマで見るような抗争が繰り返されたことが推察できます。
『吾妻鏡』以外に正史のないこの時代は謎の部分が多く、小説家や劇作家の縦横無尽な想像力と相まって誠にドラマッチック。史実でなくとも伝説を訪ねてみたくなりますね。

武勇に優れ、「坂東武者の鏡」と称された畠山重忠は、頼朝の鎌倉幕府創立に大いに活躍しましたが、頼朝亡き後は宿老による合議政治に加わらず、中枢とは距離をおく選択をしました。が、実権を握った北条氏に謀反の疑いをかけられ、討ち死にしました。鎌倉に異変ありとの知らせに居城から鎌倉へ向かう途中の二股川(現・横浜市旭区)で大軍のまちぶせにあい、非業の死を遂げたのです。

時政の娘を妻とし、武勇だけでなく文芸にも秀で(今様を謡ったり、静御前の舞にあわせて銅拍子を演奏するなども)、人望もあった、それでも、生き残ることが出来なかった。まさに悲運の武将です。『吾妻鏡』では、重忠の死が時政の謀略だったことに気づいた義時が時政を伊豆に追放したとあり、事件は、義時が時政に代わって幕府を動かしていく重要な場面になるのです。

鎌倉殿の13人の一人になったものの、御家人たちの反感を買って追放され、命を落とした梶原景時とは対照的で、後世、景時がが讒言を用いて同僚を陥れる悪徳的な人物として描かれるのに対し、重忠は優れた武将、かつ誠実で思いやりのある人格者として描かれています。
ちなみに、立川市の隣、国分寺にある姿見の池に縁の人物が畠山重忠であったことを、今、思い出しました。

畠山重忠の父、重能は秩父氏の出。重能がかまえていた居館跡が、現在の深谷市にある畠山重忠公史跡公園として整備されています。重忠の産湯に使われた井戸や、二股川で討ち死にした重忠主従の5基の五輪塔が残されています。
木曽義仲を慕い、義仲寺(滋賀県大津市)で句を詠んだ松尾芭蕉は、ここでも重忠を偲んだ句を残しています。「むかしきけ ちヽぶ殿さへ すまふとり」。
朝の目の前で、相撲取りを負かしたこと事があるそうな。義経に従軍した一の谷の合戦では、愛馬を背負って崖をかけおりたという逸話のある重忠です。当時としてはなかなかの偉丈夫だったに違いありません。

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愛馬を背おう重忠の像
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畠山主従の五輪塔
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芭蕉の句碑

重忠の居城、管谷館(すがややかた)は、武蔵嵐山町にありました。県立嵐山博物館がたっています。遺構は戦国時代のものとされ、重忠時代のものはまだ発掘されていませんが、空堀のいくつかははおそらく菅谷館時代から引き継いだものと思われ、本丸は鎌倉時代の館の中心部だったと推定されています。

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館あと全体はほぼ山林状態のまま
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二の廓あと 写真奥は県立嵐山博物館
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空堀跡が随所に遺っている

嵐山町にある班渓寺(はんけいじ)は木曽義仲、義高親子の墓があります。義仲の妻山吹姫が創建しました。。
山吹姫は「平家物語」にもその名が記されており、巴御前と共に義仲軍に従軍していたが、体を壊して京都に残ったという記事があります。義仲の息子、義高の母親ともされ、非業の死を遂げた義仲・義高の菩提を弔うために寺を創建したのでした。
寺には山吹姫のものとされる位牌や、墓とされる五輪塔があり、毎年3月には義仲等を弔う慰霊祭が行われているそうです。

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班渓寺
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本堂の屋根に義仲の家紋(五七の桐)が見える
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墓所

平家討伐に挙兵し京都に攻め込んだ木曽義仲が嵐山の生まれであったことは意外でした。出生の地は、大蔵館跡(大蔵神社)にありました。
義仲の父、源義賢は、源氏の棟梁、源為義の次男として生まれ、近衛天皇が皇太子の時に東宮警護にあたるも、部下の不始末によって職を追われ、、北陸から上野と回って武蔵に進出、秩父重孝の娘をめとって、大蔵館に移り住みました。当時武蔵の国で大きな力を持っていた秩父氏と義賢が結んだことで、関東で義賢の力が増大することを恐れた兄、義朝は息子の善平に義賢を討たせました。(大蔵合戦)この時2歳の駒王丸(のちの木曽義仲)は畠山重能らの計らいで乳母父・中原兼遠に抱かれて信濃国木曽谷へ逃れ、兼遠の庇護の下に育ったことが『吾妻鏡』に見えます。

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雑草の茂る原っぱに大蔵管跡の説明版だけが立っている

さて、宿老の一人となった比企一族は、頼朝の乳母だった比企尼いらい、源家とは深い繋がりを持っていました。能員(よしかず)の娘若狭の局は頼朝の長男頼家に嫁ぎ、長男一幡をもうけています。能員は比企の尼の甥にあたり、頼家の乳母夫でもありました。
一方、、幕府内には頼朝の妻・政子の父・北条時政を頂点とした北条家の勢力がありました。北条と比企はまさに宿敵の立場にあったと言えるでしょう。
頼朝の源氏再興の旗揚げまでは比企が。旗揚げ後は北条が頼朝を支えた形ではありますが、共に天をいだかぬ運命。頼朝亡き後、3代将軍を巡る抗争の中で、比企氏は敗れ、頼家は出家して修善寺に幽閉されました。比企氏の乱とよばれています。
先の畠山重忠がこの乱で功のあったことが『吾妻鏡』には記されています。

その頼家も暗殺された後、頼家の妻だった若狭の局が位牌とともにたどり着いたのは、かって父能員の館のあった比丘尼山((東松山市)。若狭の局はここに夫・頼家の追福のため、壽昌寺を建立しました。
1592年(文禄元年)に、関東を治めていた徳川家康から武蔵国比企郡を与えられた森川氏俊が比丘尼山の壽昌寺を現在地・扇谷に移して再興し、宗悟寺と改め菩提寺としました。市指定の森川氏の墓地が整備された寺には、頼家の位牌や蛇苦止観音像が残されています。境内には地元有志による比企一族顕彰の碑がたてられていました。
また、近くの串引沼には彼女が頼家の形見の櫛を捨てたという伝説も残されています。

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扇谷山・宗吾寺
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墓地

滅亡したとはいえ、能員の一子である員茂はかろうじて逃れ、岩殿観音堂の別当の子として養育されたのちに北面の武士となり、1221年承久の乱に敗れた順徳院に従って佐渡へ渡ったとされ、その子員長は密かに越後から比企郡にもどったことが伝わっているのですから、何とか命脈はたもっていたのですね。

比企氏に縁のある金剛寺が比企郡川島町にあります。天正年間に15代比企則員が中興したとされ、15代以降の一族の墓があり、比企氏位牌堂の大日堂は国登録有形文化財になっています。

寺のご住職が作った系図によると、比企尼と夫、比企遠宋の長女・丹後局が薩摩家初代当主・島津忠久を産んだとあります。28代の島津斉彬の家臣、西郷隆盛らが活躍し江戸幕府をたおすことになるのを思えば、武家政治の始まりにも終わりにも比企一族はからんでいたのかと驚きます。ちなみに比企家滅亡の1203年に生まれ、万葉集研究に功績のあった仙覚律師は比企能員の内室の子という伝承もあります。
寺の本堂は最近建替えられた様子で、寄進者の名盤には比企一族の名がつらねてありました。

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大日堂
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比企一族の墓

私たちが学校で歴史を学んだ頃、鎌倉時代と言えば、頼朝ら3代の将軍と執権の北条氏くらいしか出てこなかったので、比企氏など知る由も無かった。それが今、ちょっとしたブームになるなんぞ、さすが大河。地元の期待は大きいようです。

小川町にある割烹旅館二葉は創業200年を数えます。千坪の敷地には登録有形文化財の築80年の数寄屋創りの建物、離れ茶室等が立ち、回遊式の日本庭園も見事です。

名物の「忠七めし」は旅館の主と親交の深かった山岡鉄舟が名付けたそうで、忠七とは8代当主八木忠七の名前です。

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二葉の庭
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鉄舟ゆかりの展示室もある

忠七めしは海苔を加えた温かいご飯に、つゆをかけてお茶漬けのように食べる料理で、わさび、柚子、さらし葱などの薬味がそえられていました。
東京・深川めし、大阪・かやくめし、などと並び、「日本五大名飯」の一つだそうです。。天下の鉄舟が気にいったくらいですから、なるほど、味はお墨付き。おいしかったです。

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土瓶に入ったつゆをかけて食べる

ちなみに、日本五大名飯とは、下の5つをさすようです。
忠七めし(埼玉・小川町)・深川めし(東京・深川)・さよりめし(岐阜・山岳地法)・かやくめし(大阪・難波)・うずめめし(島根県・津和野町)



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