多摩のむかし道と伝説の旅 №82 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
多摩のむかし道と伝説の旅
-武蔵嵐山の栄光と悲運の武将の里道を行く 4-
原田環爾
ちなみに現在狭山市を流れる入間川に架かる新富士見橋から北に狭山中央通りを数百m進んだ所に旧鎌倉街道上ノ道との合流点がある。その一角に影隠地蔵と称する地蔵尊が立っている。伝説によれば義高が藤内光澄に斬られる直前に身を隠した地蔵という。また新富士見橋を南へ渡って入間川南岸を西へ200mばかり進んだ所に清水八幡宮がある。義高の悲運の死を悼んだ北条政子が創建した社という。一方、義高が討たれたことを知った大姫は頼朝の仕打ちを怨み、嘆き悲しんで部屋に籠ってしまった。政子は義高に直接手をかけた藤内光澄を討ち、何とかとりなそうとしたが二度と大姫の心を開くことはできなかった。大姫はますます憔悴し、ついには亡くなってしまった。鎌倉の亀ヶ谷の辻には大姫を供養したという岩船地蔵堂が今も建っている。哀れな大姫の死を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々が、この谷に野辺送りしたという。
さて班渓寺を後にし、義仲の父で義高の祖父でもある源義賢が住していた大蔵館跡に向う。班渓寺橋の袂から都幾川右岸を下り再び八幡橋に出る。八幡橋を渡り車道を右へ採るとすぐ沿道左に水道局嵐山南部揚水機場がある。その角から鎌形の広大な田園地帯の真っただ中を真っ直ぐ東へ抜ける分岐道が始まる。分岐道に入ると初めは前方180°、更に進むにつれて周囲360°四方八方すべて広大な田園風景に包まれるようになる。沿道にはこれといった樹木もなく、青い空から太陽の光が燦々と降り注ぐ。東京では決して見ることのできない風景だ。途中幾筋かの農道と交差する。道はやがて鎌形から大蔵の田園地帯へ移る。ようやくその先に平坦な田園風景を遮る小高い丘が現れる。その一角にこんもりと樹林で覆われた所が目に入る。そこが目指す大蔵館跡だ。丘の斜面を上り切ると県道172号線に合流する。県道に沿って緩やかな坂を少し下れば左手に幟立てが現れる。その奥に赤い鳥居が見える。ここが大蔵神社で、かつての源義賢の大蔵館跡だ。境内は樹木で囲まれたささやかな空間であるが、元の館はもっと広い敷地であったという。
大蔵館と義賢についてもう少し詳しく述べてみよう。大蔵館は源氏の頭領六条判官源為義の二男源義賢の居館である。館の規模は東西170m、南北200m余りあったという。土塁、空濠の遺構が残されており、特にここから100m東に行った所に見事な土塁が残されている。義賢は京で近衛天皇東宮時代の侍従の長をしており、この職を当時帯刀先生と称したことから、帯刀先生義賢と呼ばれていた。義賢は職を辞した後、ここ大蔵に戻って当地を拠点に武威を高めていた。しかし東国での勢力拡大を警戒していた兄義朝との嫡流争いとなり、久寿2年(1155)義朝の長子悪源太義平(義賢の甥)により、不意を突かれて大蔵館を急襲され義賢はあえなく討たれた。世に大蔵合戦と言う。義賢の墓は大蔵館跡から東200mばかり先の新藤家の屋敷内にある。
大蔵館跡を後にして帰路につく。県道を東に向かうと辻に出る。交差する南北に走る道は旧鎌倉街道上ノ道だ。あの畠山重忠が鎌倉との往還に使った道筋である。ここで辻を左折し北へ向う。ちなみに南へ向かえば笛吹峠を越えて鳩山町へ至る。また辻の東50mばかり入った所には先の大蔵館跡の主であった源義賢の墓がある。鎌倉道を北に向かうと左手に一寺が現れる。広徳寺という時宗の寺だ。寺の門前の右手のお堂に多数の板碑群が納められている。数えると全部で16基もある見事なものだ。最も大きなものとしては後部中央にある康永3年(1344)造立の高さ2.1mの板碑、また最も古い板碑としては1250年頃のものがある。やがて鎌倉道はゆったりとS字にカーブし都幾川に架かる学校橋にさしかかる。対岸の左方向に目をやるとこんもりした森が見える。旅の初めに訪ねた菅谷館跡だ。橋を渡ると道は長い上り坂となり、同時にゆっくり左へカーブする。上り切ると車両の行き交う 国道254号との交差点だ。左折して国道に沿って進む。沿道左は国立女性教育会館の敷地になっている。やがてその正門前に至ると国道を渡っての筋向いへ出る。「シンフォニー」というこの辺りには珍しい洒落た喫茶店がある。喫茶店の右側の街路に入ると、喫茶店のすぐ裏手に7世紀後半に築造されたと言われる稲荷塚古墳がある。墳丘の規模は約20m、高さは3.5mのこじんまりした円墳だ。ここより街路をジグザグと東へ200~300mも進めば、程なく終着点の武蔵嵐山駅に到着する。(完)
2022-07-13 19:20
nice!(1)
コメント(0)
コメント 0