多摩のむかし道と伝説の旅 №82 [ふるさと立川・多摩・武蔵]
多摩のむかし道と伝説の旅
-武蔵嵐山の栄光と悲運の武将の里道を行く 4-
原田環爾






大蔵館と義賢についてもう少し詳しく述べてみよう。大蔵館は源氏の頭領六条判官源為義の二男源義賢の居館である。館の規模は東西170m、南北200m余りあったという。土塁、空濠の遺構が残されており、特にここから100m東に行った所に見事な土塁が残されている。義賢は京で近衛天皇東宮時代の侍従の長をしており、この職を当時帯刀先生と称したことから、帯刀先生義賢と呼
ばれていた。義賢は職を辞した後、ここ大蔵に戻って当地を拠点に武威を高めていた。しかし東国での勢力拡大を警戒していた兄義朝との嫡流争いとなり、久寿2年(1155)義朝の長子悪源太義平(義賢の甥)により、不意を突かれて大蔵館を急襲され義賢はあえなく討たれた。世に大蔵合戦と言う。義賢の墓は大蔵館跡から東200mばかり先の新藤家の屋敷内にある。

大蔵館跡を後にして帰路につく。県道を東に向かうと辻に出る。交差する南北に走る道は旧鎌倉街道上ノ道だ。あの畠山重忠が鎌倉との往還に使った道筋である。ここで辻を左折し北へ向う。ちなみに南へ向かえば笛吹峠を越えて鳩山町へ至る。また辻の東50mばかり入った所には先の大蔵館跡の主であった源義賢の墓がある。鎌倉道を北に向かうと左手に一寺が現れる。広徳寺という時宗の寺だ。寺の門前の右手のお堂に多数の板碑群が納められている。数えると全部で16基もある見事なものだ。最も大
きなものとしては後部中央にある康永3年(1344)造立の高さ2.1mの板碑、また最も古い板碑としては1250年頃のものがある。やがて鎌倉道はゆったりとS字にカーブし都幾川に架かる学校橋にさしかかる。対岸の左方向に目をやるとこんもりした森が見える。旅の初めに訪ねた菅谷館跡だ。橋を渡ると道は長い上り坂となり、同時にゆっくり左へカーブする。上り切ると車両の行き交う 国道254号との交差点だ。左折して国道に沿って進む。沿道左は国立女性教育会館の敷地になっている。やがてその正門前に至ると国道を渡っての筋向いへ出る。「シンフォニー」というこの辺りには珍しい洒落た喫茶店がある。喫茶店の右側の街路に入ると、喫茶店のすぐ裏手に7世紀後半に築造されたと言われる稲荷塚古墳がある。墳丘の規模は約20m、高さは3.5mのこじんまりした円墳だ。ここより街路をジグザグと東へ200~300mも進めば、程なく終着点の武蔵嵐山駅に到着する。(完)

2022-07-13 19:20
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