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雑記帳2022-6-15 [代表・玲子の雑記帳]

2022-6-15
◆梅雨入り前の一日、群馬に、近代和風建築を訪ねました。

明治の文明開化は日本のあらゆる分野に西洋化をもたらしましたが、建築はその最たるもののひとつです。この時代、今に残る多くの西洋建築が建てられました。
その中で、和風建築は着実に発展を続け、それらが今見直されているといいます。
群馬県に点在する近代和風建築を訪ねました。

群馬県の県庁所在地は前橋市です。県庁が前橋に落ち着くまでに高崎と何度かいれかわったこともある面白い歴史をもっています。
前橋県庁の近くにあるのが臨江閣(りんこうかく)です。

臨江閣は、明治17年(1884)、当時の県令・楫取元彦の提言により、地元有志や企業の寄付で建てられた迎賓館です。

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威風堂々たる臨江閣
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臨江閣庭

そばに利根川が流れ、県を代表する妙義、浅間の山々を望む地に建てられた迎賓館は、まさに伝統的な和風建築。明治天皇の行幸の際の行在所になったのをはじめ、多くの皇族方に利用されました。特に、大正天皇は皇太子時代からこの建物を大層気に入ったようで、おとずれると、2週間は滞在したとか。利根川や山々の自然に癒される思いだったのかもしれません。

昭和20年から29年までは、仮の市庁舎として使われ、その後は平成19年まで公民館として利用されたといいますから、何とも贅沢な公民館だったのではないでしょうか。

敷地内には、迎賓館が地元有志の協力で建てられたことに心を動かされた楫取元彦が呼びかけて、県庁職員の募金によって建てた茶室があります。本館とならんで数寄屋造りの茶室は、京都の茶室大工、今井源兵衛の手になる140年前の技巧が随所にこめられているとききましたが、残念なことに現在は公開されていない様子でした。

明治43年(1910)、一府14県連合共進会が前橋で開催されました。県をあげてのビッグイベントに取り組むにあたり、貴賓館として別館が建てられました。
寺社建築と書院造、数寄屋造、江戸時代にはそれぞれ別個のものだった建築様式が、ここでは混在しているということです。格式ある書院造の内部に対し、縁側は数寄屋風の屋根、大屋根や階段の手すりは寺社の高楼、といった具合に。2階は180畳の大広間ときけば、その威風堂々ぶりが想像できるというものです。
別館は、共進会閉会後は前橋市に引き渡されて、本館と同様、一時期、大公民館として利用された時もあります。

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180畳の大広間

本館も別館も茶室も、これだけのものを建てるには莫大な費用が必要でしたが、その大部分は財界や市民の寄付でまかなわれました。それが可能だったのは群馬県が絹産業でうるおっていたからだといいます。江戸時代から養蚕、製糸、織物が栄えた群馬県は、明治になると輸出によってさらに豊かな富を蓄積していたのでした。

富岡市には誰もが知る、世界遺産の富岡製糸場があります。その製糸場を見下ろすような高台に富岡市社会教育館がたっています。高台は、群馬県の一之宮、貫前(ぬきさき)神社の境内です。
昭和9年(1934)に、群馬県で行われた陸軍特別大演習に昭和天皇が行幸され、貫前神社に参拝されたのを機に、この地に精神修養の場として東國敬神道場が建設されました。竣工は昭和11年。現在の富岡市社会教育館の前身です。

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富岡社会教育館門

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富岡社会教育観玄関

設計は当時、近代和風建築の第一人者だった大江新太郎の率いる建築事務所「大江國風建築塾」。明治神宮や日光の社寺、高野山、住吉神社などの改修を手がけていました。
全て平屋の建物は、講堂棟や講師室棟、玄関・事務室棟、宿泊・食堂棟が配置され、廊下でつながっています。戦前は群馬県下の青年男女が宿泊しながら精神修養を行う施設でした。戦後は進駐軍に接収されて、講堂がダンスホールに利用された時代もありました。、県立施設としての広域性が薄れてきたことから、現在は富岡市に移管されて、市の社会教育館になっているのです。宿泊は現在は廃止されています。国の登録有形文化財。

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宿泊棟
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講堂と宿泊棟をつなぐ廊下

宿泊棟は現在つかわれていませんが、講堂に比べると質素な造りながら、テーブルに椅子式の食堂や炊事場など、当時としてはハイカラだった設備を見学することができます。

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当時としてはモダンな食堂

県下から集まった青年男女が研修を受ける講堂には立派な神殿があり、神殿をを礼拝するのが日課でした。今は勿論神殿はありませんが、幕のうしろに形だけ残しています。

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講堂

ナショナリズムの高まりの中で造られた建物が、ダンスホールにつかわれたり、今は社会教育の場になったりしているのをみると、時代の変化を感じますね。

(ちなみに、貫前神社は宮崎の鵜戸神宮、大分の宇佐神宮とならんで、日本の「三大下り宮としてもしられています。「下り宮」というのは、鳥居(門)からの参道が下り坂になっているお宮のこと。地形や成り立ちには面白い特徴があるようですが、今回は貫前神社は訪ねませんでした。)

中島飛行機の創業者、中島知久平が両親のために建てた豪邸が太田市にあります。中島知久平は鉄道大臣や政党総裁も務めた実業家でした。邸は昭和初期に建てられました。
1万㎡に及ぶ広大な敷地には、玄関、客間、居間、食堂の4つの棟が中庭を囲むように建っています。それぞれが違う大工が建てたという面白い造りです。

4つの棟のうち、入館できるのは玄関棟だけです。
先ず、客は車寄せの驚くほど巨大な唐破風に圧倒されます。玄関先の階段は一枚物の白御影石。石にしろ、木材にしろ、使われた材料はすべて国中から選ばれた一級品です。応接間は洋式で、ステンドグラスやシャンデリアが目をひきました。

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圧倒される立派な車寄せ
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車寄せの屋根のを支える木材も贅沢に
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応接間
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客室棟とプライベートな居間棟は中にははいれませんが、外から見学できます。客室はシャンデリアを除けばすべて和風の書院造。長く使われていなかったためにすっかり荒れてしまった客室も、まだ修復されてはいないものの、襖や壁の装飾の豪華さを偲ぶに難くありません。

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客間

日清・日露戦争を経た日本では、ナショナリズムの高まりとともに、建築でも和を追求する機運が高まっていました。江戸時代に培われた職人の高度な技術が、おしみない財力を注がれて、最も自由に発揮されたのが、実は昭和初期であったというのです。贅を尽くした建物を巡ればそれぞれに職人の心意気がしのばれるというものでした。

平成になって住む人もいなくなり、空き家になったのを契機に、太田市が土地を買収、建物は寄付されて市の所有となり、「太田市中島知久平邸地域交流センター」としてオープンしました。平成25年、国の重要文化財に指定されましたが、管理するのは自治体です。客室を修理するのにいったいどれくらいかかるのか、中島知久平が惜しみなく財力を注いだエネルギーは今の日本にはもはやない。それでも、地域の交流センターに生まれ変わって、住民が集える場所になったのは決して悪いことではありません。

群馬といえばこんにゃくです。
お昼にこんにゃくの会席料理を頂いた「ときわ荘」は、前述の大江新太郎の建築塾の設計でした。こちらも国の登録有形文化財になっています。

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こんにゃく御膳
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ときわ荘外観
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ときわ荘庭



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