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多摩のむかし道と伝説の旅 №80 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

           多摩のむかし道と伝説の旅
                  -武蔵嵐山の栄光と悲運の武将の里道を行く 2-
               原田環爾

2-2.jpg 菅谷小前を回り込んで再び緩やかな坂道を下って行く。小学校の外周フェンスに描かれた武者行列の絵が面白い。坂を下りきると車両の行き交う広い国道254号線に出る。先の国道と同じ名称であるが、先の国道が旧道であるのに対し、こちらは新道だ。車道を跨ぐベージュ色の菅谷第二歩道橋の向こう側には車道に沿って大きな森が横たわる。ここが菅谷館跡だ。歩道橋の上に上がると館跡の大きさがよくわかる。国道沿いの中程に高い幟旗の立っている所が正面入口で博物館に直結する出入口である。昔はそこが城の搦め手口であったという。館跡はどこから入ってもいいが、ここでは歩道橋渡って少しバックし、館跡の角地から雑木林の小道を通って中へ入ることにする。
2-3.jpg 館跡に入ると右手の雑木林に覆われた平坦地は三の郭だ。左手は駐車場で、その隣に埼玉県立嵐山史跡博物館がある。小道を進むと左手の雑木林が大きく払われて、明るいニの丸が展開する。右手には雑木林で覆われた小さくこんもり盛りあがった塚のような小山がある。路傍の木柱に「畠山重忠公像」と記されている。小山の上に目をやると、樹間に確かに像が立っているのが見える。細い階段を上ると、武者姿ではなく常服の直垂姿をした等身大の重忠公像を目の当たりに見ることができる。
 ところで畠山重忠とはどんな人物であったのか。彼は平安末から鎌倉初頭にかけて活躍した秩父平氏の末で、菅谷より北東約20km先の荒川の畔にある大里郡川本畠山荘(現埼玉県深谷市)にて荘官秩父重能の子として出生した。治承4年(1180)源頼朝が石橋山で挙兵すると、当初は平氏として頼朝に対峙したが、その後秩父系の諸豪族を伴って頼朝のもとに参陣した。重忠は源平戦では義経に従って活躍し鎌倉の武家政権樹立に貢献した。その巧あって菅谷の地を与えられた重忠はここに城館を構えて移り住み鎌倉へ出仕した。彼は武勇に秀でているだけでなく、今様を謡って頼朝を喜ばせたり、鶴岡八幡宮での静御前の舞の際は銅拍子を打つ等、歌舞管弦等の文化的素養にも優れ、その上礼節を重んじ、他人への思いやりが深いという典型的な鎌倉武士であり、武蔵武士の鑑として尊敬を集めた。彼を有名にしたのは一の谷の合戦での鵯越の活躍2-4.jpgで、切り立った崖を下るのを恐れる馬を、自らの鎧の上から肩に背負って降りたというエピソードだ。川本の畠山重忠公史跡公園には重忠愛馬背負い像がある。頼朝の信頼は厚かったが、頼朝が亡くなると幕府権力の掌握を狙う執権北条時政の謀略により、元久2年(1205)「鎌倉に異変あり」の急報に菅谷館からわずか134騎ばかりの郎党をつれて鎌倉へ向かうところ、北条義時率いる幕府軍により横浜郊外の二俣川を臨む鶴ヶ峰で包囲され非業の死を遂げている。享年42歳であった。鶴ヶ峰には重忠と家臣を葬った六ツ塚がある。重忠の栄光と非業の死は秩父や多摩を含む武蔵一円に多くの伝説を生むこととなった。これについては本稿第5話「悲2-5.jpg運の武将畠山重忠が踏み固めた鎌倉街道山ノ道」にて詳しく記述しているので参照されたい。
 なお菅谷館跡は畠山重忠の館に起源を有するが、現在残されている館跡の遺構は当時のものではなく、遥か後の戦国時代末頃の改築になるものと考えられている。長享2年(1488)、山内上杉と扇谷上杉の両上杉は菅谷館付近で大規模な戦闘を繰り広げ、死者700人、馬は数百匹倒れたと伝える。現在の遺構は本郭、二の郭、三の郭、西の郭、南郭、土塁、空濠などからなるが、厳しい戦国時代を経てきたとは思えないほど見事な遺構を残してくれている。ちなみにはっきりしたことは不明なるも、重忠の館は本郭辺りにあったと言われている。
 重忠公像を後にして西の二の郭に入る。本郭と二の郭の境界を巡らす高い土塁と空濠に沿って反時計回りに辿る。空濠は大きくかつ見事な造りで、中程には敵の侵2-6.jpg入を効果的に防ぐための凸状に突き出た出枡形土塁と呼ばれる土塁が築かれている。吾妻屋の右にやると急な下りの細い小道となり南郭に入る。南郭がどのように使われたかは不明とのことだ。小道は2つに分岐する。左を採れば南郭を経て本郭に入り、ニの郭を経て元の重忠公像へと館跡を一回りすることができ、併せて博物館に入って武蔵嵐山の歴史を知ることも出来る。博物館に入れば畠山重忠の菅谷館跡のほか、源義賢の大蔵館跡、木曾義仲の鎌形、その他比企郡の城跡群など、栄光と悲劇の中世武士を輩出した嵐山を中心とする埼玉県の歴史をわかりやすく紹介している。入館して驚くのはいきなり重忠ロボットが身振り手振りで説明してくれることだ。
 一方分岐道を真っ直ぐ南へ進めば、雑木林の小道となる。左に「ホタルの里」、右に「蝶の里公園」を見て雑木林の小道を抜けると都幾川の左岸に出る。眼下を大きく蛇行する都幾川の上流に目をやると100m先に二瀬橋が2-7.jpg見える。左岸を辿り二瀬橋の袂に出る。二瀬橋は南北に走る広い車道になっていて、橋の南側には気が遠くなるほどの広大な田園風景が広がっている。二瀬橋の橋上から上流を見ると、都幾川はゆったりと鎌形のある左手南西方向へ蛇行して行くが、すぐ手前の所で右手北西方向から流れてきた支流の槻川が注ぎ込んでいる。ちなみに武蔵嵐山という地名の由来は、槻川の上流に槻川橋があり、そこから眺める景観が京都の嵐山に似ているということから、昭和3年故本多静六博士により名付けられたという。なおこの合流点付近を古来二瀬と呼び、鎌倉街道上ノ道の渡河点であったとも言われる。二瀬橋の車道を北へ向って上り坂を200mばかり進めば雑木林の中に古道跡が残されており、鎌倉古道碑が立っている。(この項つづく)



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