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論語 №142 [心の小径]

四五一 孺悲(じゅひ)、孔子に見えんと欲す。孔子辞するに疾(やまい)を以てす。命を将(おこな)う者戸を出ず。瑟(しつ)を取りて歌い、これをして聞かしむ。

        法学者  穂積重遠

 孺悲なる者が孔子様にお目にかかりたいとて来訪した。孔子様は病気だといってことわらせた。取次の者が部屋の戸口を出て玄関に行くと、孔子様はすぐに二十五弦琴を取り上げてかきならし、それに合わせて聞こえよがしに歌をうたい、実は仮病なのだということを知らせた。

 孔子様がなぜ仮病までつかって面会謝絶をされたかはハッキリしない。孺悲が前に何か不始末があって、ノメノメ顔が出せる義理でなかったのに、押強くやって来たので、会わぬ訳があって会わぬのだということを暗に知らせ、孺悲の反省をうながされた、というような次第であろう。

四五二 宰我(さいが)問う。三年の喪は期すでに久し。君子三年礼を為さずんば、礼必ず壊れん。三年楽を為さずんば、楽必ず崩れん。旧穀(きゅうこく)既に没(つ)きて新穀既に升(みの)る。燧(すい)を鑚(き)り火を改む。期にして巳(や)むべし。子のたまわく、かの稲を食(くら)い、かの錦を衣(き)る、なんじに於て安きか。いわく、安しと。なんじ安くばすなわちこれを為せ。それ君子の喪に居(お)る、旨さを食えども廿からず、楽を聞けども楽しまず、居処(きょしょ)安からず。故に為さざるなり。今なんじ安くばすなわちこれを為せ。宰我出ず。半のたまわく、予(よ)の不仁なるや。子生まれて三年、然る後父母の懐(ふところ)を免(まぬが)る。それ三年の喪は天下の通喪(つうそう)なり。予やその父母に三年の愛あるか。

 「期」は「期限」の意味にも「一年」の意味にも用いる。宰我の言葉のうち、始の「期」は前者、次の「期」は後者。「燧(すい)を鑚(き)り火を改む」-昔は、木の板に凹みを作り同じ木の棒の一端をそこに当て錐をもむようにして火を取った。その木が四季で違う。春はニレ・ヤナギ、夏はナツメ・アンズ、秋はハハソ・ナラ、冬はエンジュ・マユミ、そして一年で元にもどる。「稲」はここではモチゴメ、すなわち米の中で一番美味のもの。

 宰我(予)が「父母の喪の三年というのは、期限が長過ぎはしますまいか。君子が喪にこもって三年も礼をしなかったら、札が必ずみだれましょう。三年も楽をしなかったら、楽が必ずくずれましょう。それでは甚だ不都合であります。ところで二年たてば、去年の穀物は食い尽くされて新しい穀物が出回り始めます。木を警て火を切り出すのも、一年でその木がい這います。それ故喪も一年で打切るのが適当でありましょう。」と言った。すると孔子様が、「親が死んでも一年たちさえすれば、おいしいもち米の飯をたべ、美しい錦の着物をきて、それでお前は気安いのか。」と問われたところ、宰我が「かくべつ気が咎(とが)めませぬ。」と答えたので、孔子様はごきげん宜しからず、「そうか、お前の気が済むならそうするがよかろう。いったい君子の服喪中は、美食をしても口に廿からず、音楽を聞いても耳に楽しからず、よい住居に居ても落着かない・それ故に衣食住を簡素にするのだが、お前は美衣美食安住して心安いならかつてにそうしなさい。」と苦り切って言われた。それで宰我は面目を失って引下ったが、あとに残った門人たちに向かって孔子様がおっしゃるよう、「さても予は不仁非人情な男かな。子供は生れてから三年でヤツト父母の懐ろからはなれるものだ。それ故三年の喪が天子より庶人に至るまで上下一般に通ずる定例になっている。ぜんたい予は両親から三年の愛を受けなかったのだろうか。」

『新訳論語』 講談社学術文庫


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