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武州砂川天主堂 №2 [文芸美術の森]

第一章 慶應四年・明治元年 2

         作家  鈴木茂夫

一一月十八日、仙台城下。
                                      
 仙台の町に小雪が舞う。しんと静まりかえった武家屋敷が軒を連ねる細横町元立町(ほそよこちょうもとだてまち)。
 「戻ったぞ」
 藩医(はんい)竹内寿彦(としひこ)が青葉城から帰宅した。鍼(はり)を専門とし、二百五十石を給(きゅう)されている。
 普段着(ふだんぎ)に着替え、火鉢に手をかざし、差し出された茶に口をつけた。
 「一段と寒さが沌みるのう」
 嫡子(ちゃくし)・寿貞(としさだ)がその前に坐りこんだ。当年二十四歳、俊敏な顔立ちの若者だ。
 「父上、殿さまのご様子はいかがですか」
 「うむ、きょうも鍼を打たしていただいた。ご心労が重なっておられる」
 「殿様は、何をお悩みなのですか」
 「お前も知っての通り、徳川将軍家が大政奉還され、王政復古となり新政府が生まれた。新政府は、徳川と会津藩を朝敵として、武力で討伐するとしている。一月半ばから、再三にわたり、わが藩に会津追討の先陣に立てと言ってきている。すでに徳川は大政を奉還しているのだから、野心があるとは言えない。王政復古のときにあたり、戦乱を起こすのは、天皇の真意であろうか。それにより、わが国とかかわりのある諸外国から、どのような侮りを受けるかはかりしれない。これが殿様の考えだ」
 「父上、私もとのさまのお考えに同感であります。見込みはどうですか」
 「問題は、会津藩の処遇だ。会津藩は五年間にわたり、京都守護職に任じ、尊王攘夷派と対決してきた。今や、新政府の中枢に入り込んだ長州藩は、会津を宿敵としているからな」
 「父士、われらは会津と戦うことになるのですか」
 「われらには会津と戦う名分はない。しかし、新政府は戦えと命じてきている。それは理不尽だ。ところがこの難局に際し、重臣の意見が二つに割れている。一つは新政府の意向に添わないと、わが藩も朝敵とされるという。後は殿と同じ意見だ。これを取りまとめるのはむずかしい。このため殿もはっきりとした、藩の方向を打ち出すことができないでおられる」
 「ただならぬ気配が刻一刻と迫ってきているのですな」
 父寿彦は、口をつぐんだ。

 二月二十二日、フランス・オートマルヌ県ティヴエ村。
                                さなか
 パリの東南東約三〇〇キロ、オートマルヌ県ティヴエ村は冬の最中だ。東の地平線が明るい。日の出はもうすぐだ。雪の気配だろうか、鈍色の厚い雲が空一面をおおっでいる。ゆるやかな丘陵地帯に広がるブドウ畑と小麦畑は雪に包まれている。温暖な気候に恵まれ、古くから農耕が営まれてきた。葡萄酒シャンパンの生産地として名高い。
 村はコンミューンと呼ばれる。百戸あまりの農家で村を形成している。テストヴイド家は、その中の一軒だ。
 ジュルマン・レジェ二テストヴィドは、十九歳の少年だ。長身の頭に、黄金色(こがねいろ)の髪、銀色の瞳が光る。身繕いして牛小屋で乳を搾る。朝の日課だ。温かい乳が乳缶にほとばしり出る。ジェルマンは干し草を牛に与えた。
 それが終わると五人家族でお祈りを済ませて朝食。父親のブローシユ、母親のコリーヌ、長男のジェルマン、長女のロレーヌ、次男のセザールだ。朝食を終え、ジェルマンは急いで村の教会へ駆けつける。司祭の室は、ストーブで暖まっていた。
 初老のボランスキー神父が、笑顔で迎えた。
 ジェルマンは机をはさんで、神父の前に坐る。ジェルマンの優れた資質を見て、神父が個人的に神についての授業をしようとはじめたのだ。もう二年になっていた。
 「ジェルマン、おはよう。課業をはじめよう。最初は、永遠の生命(いのち)について考えよう。これについて何を思うかな」
 「永遠の生命とは、神を知ることです。ヨハネ伝福音書第十七章第三節に永遠(とこしえ)の生命は 唯一の眞の神にいます汝と なんぢの遺し給ひしイエス・キリストとを知るにあり(文語訳聖書・以下聖書の引用は同様)と記されてあります」
 「そうだ、よくできたよ。神を知ることは、この世ではじまり、来世において完成する。私たちがこの世での「生活を終え、死後の世界で神に出会う。ヘブル人への書第十一章第一節には
 それ信仰は望むところを確信し 見ぬ物を真実とするなり
とある。眼には見えない物を真実とする態度です。眼に見えない物とは、われわれの五感を超えたところに存在される神こそが真実であるとすることだ。これが神を知る道筋だ。私たちの肉体が亡びても、私たちの霊魂は亡びない。その霊魂が永遠の生命として生き続けるには『望むところを確信』することだ。そこで何を確信するのか」
 「人が良く生きることです」
 「それには学べば良いのだろうか」
 「良く生きる指針、つまり永遠の生命は、学んで得られるのではありません。信仰によってのみ得られるのです」
 「そのとおりだ。では信仰とは何かね」
 「神をあるがままに認識することです。神の言葉を受け入れることです。何の注釈もつけることなくです」
 「信仰は良く生きるための心の糧だ。信仰は、良く生きるために必要なことをすべて教えてくれる」
 「神父様、見えないものを信じるのは愚かであり、見えないものは信じるにたりないという意見もあります。これはどう考えるべきでしょうか」
  「ジェルマン、それは悪くない質問だ。見えるものは輝かに信じることができる、見えないものは信じられないというのは、なぜだろう。それはわれわれ人間の知性が完全なものだという立場に立つ。しかし、われわれの知性は完全ではない。われわれの五感の一つである視覚は、しばしば誤った認識をすることがある。視覚も完全ではないのだ。もちろん、われわれの知性は、努力することで理解できることも多くある。と同時に理解できないことは、理解できるものより数多くある。神はわれわれ人間を超えた存在だ。だからこそ、ヨブ記第三十六章第二十六節には、
 神は大(おおい)なる者にいましてかれを知りたてまつらず その御年の数も計り知るべからず
とある。神の存在は無限なのだ。その無限である神の言葉であるから、われわれはあるがままに、それを受け入れる。見えるか見えないかの問題ではない」
 「神父様、信仰の意義については、これまで何度もお話して頂いています。何度聞いても、私には新鮮なことです。信仰することの根本がここにはあると思えるからです」
 「ジェルマン、信仰とは、神の言葉を受け入れ、神の言葉にしたがうことだ。君はこのことを理解している。そうであるから、神とは何かを考えてみよう。神とは、世界の創造者であり、支配者であり、摂理(せつり)をはたらかす存在である。われわれが神によって生み出され、神の摂理の中に生きていることを信じる者は、同時に神が存在されることを信じる人である。このような人をキリスト者という」
 「神父様、私はキリスト教についての勉学をするにつけ、神の使徒として生きたいという思いが強くなっているのです、そのためには、まだまだ多くのことを学ばなければいけないでしょう。ですが、私はそうしたいのです」
 「ジェルマン、うれしいことを言ってくれたね。君の希望を実現するには、神学校で学び、宣教師として活躍することだ。私は、喜んでその手伝いをしよう」
 「そうなんです。宣教師となることは、私の夢です。両親の許しを得て、ぜひそうしたいと思うのです」
 「私の教区から、君が立派な宣教師となって巣立ってくれればとてもうれしい。そのためには、ラングルの神学校で学ぶことが求められる。神学校では、聖書を学ぶほかに、ラテン語が必修科目とされる。教会の公文書は、すべてラテン語で書くことになっているからだ」
 「神父様、私にラテン語を教えてくれますか」
 「喜んで教えてあげるよ」
 ボランスキー神父は、立ち上がって書棚から分厚い一冊の書籍を取り出した。
 「ジェルマン、これが教科書だ。これに入る前に、ラテン語とは何かを話しておこう。ラテン語は古代ローマ市民が話していた言葉だ。もちろんローマ市民だけではなく、ローマ帝国の公用語として使われていた。だがローマ帝国滅亡の後は、それぞれの地域ごとに言葉が変化したといわれる。私たちが今話しているフランス語もラテン語から生まれ出たものだ。イタリア語、スペイン語などもその仲間だ。だからラテン語にはフランス語と通じる点が多い。しかし、今やラテン語を自分の言葉として話す人はいない。ラテン語は学ぶ言葉だ」
 「神父様、ラテン語は私が学ぶ最初の外国語ですね」
  神父は手元の紙に文字を書いた。
  Dei te ament, Ut valess Gratias ago 
 「書いたのは三つの挨拶文だ。君の思うように発音して」
 「デイテアメント。ウトヴァレス。グラティアス アゴ」
 「悪くない発音だよ。これはね、『今日は』、『お元気ですか』、『ありがとう』なんだ。この次から、教科書ではじめよう。ラテン語を口にした気分はどうだい」
 「うれしいです」 

『武州砂川天主堂』 同時代社


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