SSブログ

西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №82 [文芸美術の森]

        喜多川歌麿≪女絵(美人画)≫シリーズ
         美術ジャーナリスト  斎藤陽一
          第10回 「北国五色墨」

82-1.jpg

河岸見世の遊女≫

 今回は、寛政6年~7年に歌麿が描いた「北国五色墨」(ほっこくごしきずみ)シリーズを見ます。
 「北国五色墨」は、吉原遊郭の女を主題とした異色の「大首絵」5枚のシリーズです。

 「北国」とは、江戸城から見て北方にあった吉原遊郭の別称。ちなみに深川の遊里は、江戸城の東南(つまり辰巳)の方向にあったので「辰巳」と言われ、品川の岡場所は南の方角にあったので「南」と呼ばれました。

 シリーズの題名「北国五色墨」には、多種多様な墨の色になぞらえて、吉原に生きる各階層の女を描き分けるという意図が込められており、「花魁」(おいらん)「芸妓」「切りの女」「河岸」(かし)「てっぽう(鉄砲)」という5人の遊女が描かれています。

 上図は、「河岸」(かし)と題するその中の1枚。これは、吉原の遊女の中でも下級の遊女のことを言います。

83-2.jpg 吉原遊郭は、遊女が足抜けできないように周りを幅2間(3.6m)の掘割(「お歯黒どぶ」)で囲った、およそ2万坪の面積を持つ、幕府公認の遊郭でした。
 弘化3年(1846年)に町役人が町奉行所に提出した報告書によると、吉原の総人口は8、778人。そのうち遊女は4,834人でした。

 遊郭の中には、いくつかの町があり、いくつもの通りに面して、大見世、中見世、小見世など、高級、中級の遊女を抱える「妓楼」が軒を連ねていましたが、「西河岸」や「羅生門河岸」と呼ばれた裏通りには、下級の遊女たちが商売をする「河岸見世」や「切り見世」「鉄砲見世」と呼ばれる小さな家が連なり、安い値段で男たちの相手をしました。

 上図に描かれた女は、「河岸見世女郎」と呼ばれた、2朱(銭で500~600文)で商売する下級遊女です。

 吉原の遊女は、泊りの客を早朝に送り出すと、しばし仮眠、そのあとに入浴して昼食をとり、午後からの商売(「昼見世」)に備えました。
 この遊女は、入浴して昼飯をすませたのだろうか、着物を片肌脱ぎにしたまま、楊枝を加えている。髪もまだ乱れたまま。下級の遊女にまで転落してしまった女のすさんだ日常生活がうかがえるような描写です。
 女の目つきや口元には、この女の気の強さやたくましさのようなものも伝わってくる。歌麿の観察はなかなか鋭いのです。

≪「てっぽう」~局見世の遊女≫

 「北国五色墨」シリーズからもう1点、「てっぽう」と題された絵を見ておきましょう。

82-3.jpg

 吉原の狭い路地や河岸通りには、「局見世」(つぼねみせ)と呼ばれる一間(ひとま)だけのごく小さな部屋が立ち並ぶ一角もありました。ひとつの部屋には一人の遊女だけが営業しており、これらの遊女を「てっぽう」(鉄砲)と呼びました。
 鉄砲に込める弾のことを「百目玉」(ひゃくめだま)と呼んだことになぞらえ、「局見世」の遊女の値段が「一発百文」(数千円くらい)だったことから、「てっぽう」が遊女の名称になったらしい。

 歌麿の描く「てっぽう」は、胸を大きく広げて、懐紙を口にくわえ、手を伸ばしています。髪の毛は乱れ、その眼が見つめる先には客の男が・・・と想像すると、かなり生々しい描写です。

 この遊女はかなりの年増でしょう。
 大見世や中見世などにつとめる遊女たちでも、年季が明けても、身請けしてくれるような男がいなかったり、故郷とも断絶していたりする者は、生きるために、もっと下級の遊女に身を落とす女も多かった、と言います。
 そのような状況を知ってこの絵を見ると、なんとも哀れな気持ちになります。

 次回は、吉原の遊女の中でもトップクラスの「花魁」を紹介します。
(次号に続く)


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。