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雑記帳2022-5-1 [代表・玲子の雑記帳]

2022-5-1
◆金沢は「空から謡が降ってくる」城下町です。そこには前田家の戦略があったのです。

2月に茶の湯文化を訪ねて北陸へ行ったところ、雪まみれの冬の北陸にすっかり魅了されました。今回は桜花爛漫の金沢に、百万石の藩主が愛した能の世界をたずねました。

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能の鼓をイメージした金沢駅の鼓門(つづみもん)

能の起源は古く、奈良時代にさかのぼります。6世紀、中国から「雅楽」とともにもたらされた民間芸能が「散楽」とよばれていました。それが日本古来の芸能とまざりあって、「猿楽」として流行したのが起源とされています。
鎌倉時代には、農耕儀礼から生まれた「田楽」や、僧侶たちの寺院芸能である「延年」が流行しました。こうした芸能に、歌曲や舞が加わって、ストーリー性のあるものが構成されていきます。
そして、室町時代、観阿弥・世阿弥父子の登場によって、王朝文芸とまざりあった、洗練された高度な舞台芸能へと大成されていきました。
こうした歴史を持つことで、「能楽」はユネスコによって日本で最初の無形文化財に登録されたのでした。

能楽はシリアスは歌舞劇である能と、写実的な演技によって滑稽な人間の姿を描く狂言とで構成されています。能は仮面劇でもあり、題材は神話や伝説、或いは伊勢物語や源氏物語、平家物語などからとられています。

能には観世流を初めとして、宝生、金春、金剛、喜多の5流があることがしられています。
金沢は加賀宝生の名で有名ですが、これにも歴史があるのです。
桃山時代、能は武将の重要な社交の手段でした。秀吉が金春流を贔屓にしていたため、、前田家の初代利家は金春流でした。江戸時代には武家の必須教養となり、前田家では権力者の好みを反映させながら、能楽を保護育成していきます。その結果、藩主お抱えの専業役者「御手役者」だけでなく、町人専業の「町役者」が活躍するようになりました。こうして、植木職人や左官にいたるまで、能を謡い舞う風土がつくられたのでした。
そして、5代綱紀が将軍綱吉お気に入りの宝生9世に入門して御手役者も町役者も宝生流に転流させたのが加賀宝生のはじまりでした。以来、金沢では宝生の伝統を今もうけついでいるのだということでした。

おもてと呼ばれる能面は無表情に見えますが、じつは僅かな角度の変化や動きで様々な表情が感じられる工夫がされています。豪華な装束もまた、舞台を読み解く重要なカギです。
金沢能楽美術館は加賀宝生に伝わる能面や能装束を収蔵展示する施設として建てられた市立の美術館です。金沢能楽堂の復元模型も展示されているほか、1階展示室の壁にはおなじみの世阿弥の言葉の数々も紹介されています。曰く「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」曰く「命には終わりあり、能には果てあるべからず」・・・

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市立能楽美術館
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翁と媼の能面
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装束と面をつけてもらってちょっぴり能の世界を体験

百万石の加賀藩はその財力で幕府から一目置かれると同時に危険視もされたはずです。前田家が茶の湯や能などの文化・芸術に力を注いだ(それも権力者の好みを反映させながら)のは加賀藩の保身の策だったのでは、と、この日の講師、宝生流能楽師の渡辺茂人さんの言葉にもありました。

金沢には能楽の拠点として、もう一つ、県立能楽堂があります。建物の中にある能舞台は、上記の金沢能楽堂を県が譲り受けて移築したものです。舞台の各部分の名称には子供用の解説書もあって、なるほど、当地では子どもころから能に親しんでいるのだと納得しました。年間を通して子供向けの狂言や謡、仕舞の教室も用意されているようでした。面白いと思ったのは、役者が橋がかりに入る揚げ幕が普通5色であるのに、宝生流では4色、白がないのです。徳川に遠慮してのことだという話でした。
能舞台に屋根が有るのは、能がかって野外で演じられていた名残です。

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県立能楽堂
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能楽堂内にある能舞台

昔、松山にある母の実家に遊びに行くと、リタイアした祖父がなにか唸っていたのを思い出します。子ども心には退屈この上ないものでしたが、後に、祖父が喜多流をたしなんでいたことを知りました。女系家族の中で引退すれば居場所もなく、所在無げだった祖父の唯一の楽しみだったのだと思うと、ほろ苦く、おじいちゃんにもっと優しくしてあげれば良かったと後悔したものです。
或いは小学校高学年だったころ、学校の講堂で狂言を見たことがありました。その時の記憶は強烈で、役者は舞台で三角に動くという話だの、太郎冠者を追う長者の声が今でも耳に残っています。今回の旅で、戦後衰頽した能楽をささえるために、能楽師達が手分けして全国の小中学校を巡っていた時代があったことを知りました。
祖父の記憶と言い、初めてみた狂言の記憶と言い、無縁だと思っていた能楽の世界とも、実は意外な処で接点はあったのですね。

能楽堂で、講師の渡辺さんの仕舞をたのしみ、謡曲「高砂」の譜面を読んだ後のお楽しみは加賀料理です。加賀料理と言えば治部煮。金沢名物のすだれ麩と共に味わいました。

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先付(桜胡麻豆腐)
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八寸(上・海老うま煮、花見団子、左・五郎島金時カステラ)
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椀物(海老新丈、菜の花)
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向付(鮪、替、カンパチ、あしらいに蓮の茎)
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治部煮(鴨、すだれ麩、生麩)
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焼き物(鰆の幽庵焼き、しらがねぎ、はじかみ、わらび)

金沢のシンボル、金沢城は、復旧なった石垣が見事です。金沢城公園は天守も御殿もないけれど、無料で市民に公開されているのが自慢だとは、案内してくれたガイドさんの言葉でした。訪れた日は4月の中旬で、東京では桜はおわっていましたが、金沢はちょうど満開を迎えたところでした。しかも、「弁当忘れても傘を忘れるな」と言われる金沢で、なんとこの日の天気は日本晴れ。随所で桜を楽しむことができました。

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石川門方面を望む桜並木

国内3名園に数えられている兼六園は観光客も多く、誰もの知る所ですが、隣接する「成巽閣(せいそんかく)」を訪れる人はあまり多くはないようです。

文久3年(1863年)に加賀藩13代藩主・前田斉泰が母・真龍院(12代斉広夫人)の隠居所として建てた歴史的建造物で、前田家の奥方御殿として国の重要文化財に指定されています。時節柄か前田家伝来の雛人形道具特別展がひらかれていました。残念ながら内部の写真撮影は禁止されていますが、縦横文化財の建物は一見の価値ありです。

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成巽閣
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成巽閣庭

石川門の反対側、金沢城公園の鼠多門側にあるのは「玉泉院丸庭園」です。前田家3代の利常の時代に作庭がはじまり、幕末まで歴代藩主が愛した庭園ということで、小さいながら兼六園よりも古いのです。
庭園を巡ればいくつもの石垣、中でも有名なのが色紙短冊積石垣です。石垣の上部に滝を組み込んだ特別な石垣で、石樋からの落水の背後に色紙形の石を段違いに配して、城郭石垣の技術と庭園としての意匠とが見事に融合した金沢城ならではの傑作とされています。TV番組「プララモリ」で、この石垣を見上げたタモリさんが、「加賀の殿様、石で遊んでいますね」と言ったのはまだ記憶に新しいところです。

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玉泉院丸庭園
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色紙短冊形石垣

金沢では「弁当忘れても傘忘れるな」は本当です。庭園を巡った日は「運よく」以外のなにものでもありませんでした。前日は昼間晴れていたのに、夕方になると急に空がくもり、雨が降り始めたのです。天気がいいに超したことはないけれど、雨が降ればそれなりにまた別の風情があるものです。人(ひと)気のないひがし茶屋街で雨宿りして抹茶を頂いたのも思い出です。


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加賀棒茶をたのんだらこんなかわいいお菓子がついてきました


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