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現代の生老病死 №17 [心の小径]

質疑応答

     立川市・光西寺  寿台順誠

Q.前に「批判的に読み解く『歎異抄』」の二回目の話の時にもお尋ねしたことですが、優生思想の背景にはユダヤ教など宗教の問題がありませんか?
A.それは特定のある宗教のせいには出来ないのではないでしょうか。仏教の中にも、例えば天親の『浄土論』に「女人及根欠、二乗種不生」(女人および根欠、二乗の種生ぜず=女性及び障害者、そして声聞・縁覚という小乗の行者は浄土に往生出来ない。『真宗聖典』136頁、『浄土真宗聖典七祖篇一一註釈版一一』本願寺出版社,1996,31頁)とあるように、問題のある箇所はありますからね。優生思想を正当化する言説はどの宗教からも引き出せると思います。例えば日本では脳死・臓器移植が盛んに議論された時に、賛否両論ともが仏典で正当化していたということがありました。そのように、宗教の聖典というものはある問題について大概賛否両論を備えているものです。それは宗教の豊かさだとも思いますけれどね。
 私は今ここで、ある宗教のどこが優生思想につながるといったことを具体的に示すことは出来ませんが、先ずは以上のように考えるべきだと思います。それで、優生思想としてさしあたり問題になっているのは近代的な意味での優生思想(優生学)だということを押さえる必要があります。勿論、それがいろいろな宗教思想から正当化された歴史はある訳ですが、それについては又、いろいろな研究が出ていると思いますので、そうしたものを一つ一つ丹念に見ていく必要があるのではないでしょうか。

Q.キリスト教はユダヤ教の課題を克服しようとしたのではないかと思いますがどうですか?
A.よく分かりませんが、要するにユダヤ民族という特定性を超えて普遍的な真理とか、普遍的な愛とかを示したのでキリスト教は「民族宗教」ではなくて「普遍宗教」だとなる訳でしょう。それについて私は異論ありませんし、一般的に言われてきていることだとも思います。

Q.  死因の一つとして増えている.老衰死(自然死)の背景には健康寿命が延びていることも結びつきますか?
A.   当然結びつくと思います。でも、これは相対的なものだとしか言いようがないじゃないでしょうか。例えば、親鸞の時代に老衰は何歳だったでしょうか。当時、平均寿命は50歳にはなっていないですよね。その意味では、時代と社会によって基準が違うのは当然だと思います。現代において寿命が長くなってきたのには、医療の発達もあれば、嘗てとは食べているものの栄養も違うということがあると思いますので、そうしたことの全体が総合して寿命が延びていると思うのです。それで、もうそろそろ80代になっても「老衰」とは言えなくなってくるのではないでしょうか。(31)

司会者のまとめ
 今日の先生のお話で仏教教理の一つ、「迷いの生存におけるすべては一切皆苦」の深い意味が良く理解できたように思います。そして現代的問題として「操作される生」という視点から「現代の生老病死」について広く深いお話をしていただき本当に有り難うございました。
 今日、たしかに昔と比べたら「老・病・死」の時間的過程がずっと長くなってしまって、老後の人生をどう過ごせばいいのかが大きな問題になっています。私は40年以上の会社勤めを終えた後、さてこれからの毎日をどう生き、何の為に生きたら艮いか懐悩煩悶し、挙句、ご縁あって正雲寺のご住職にお願いして真宗大谷派衆徒として得度を受けました。
 老後の人生の送り方はそれぞれの考えで対応するべきことなのでしょうが、「苦」の本質を自覚せずただ長く生きればよいということではないと思います。結局、四苦八苦に苛まれて不安な毎日を過ごすことがないように、阿弥陀様に帰依し、信心をいただいて生きなさいということでしょうか、「自然法爾」という親鸞聖人のお言葉が強く思い起こされます。
 順誠先生には今回のテーマの二回目をお願いしております。日時は未定ですが迫ってお知らせしますので是非ご聴聞下さいます様お願い申し上げます。

註(31)これに関しては、後日、「老衰」の定義をハッキリさせる必要があるのではないかと思ったので少し調べてみたが,藤村憲治『死因「老衰」とは何か-―日本は「老衰」大国、「老衰」で死ねないアメリカ-』南方軒吐、2018が特に参考になると思われた。同書は「老い衰えゆくこと」という「文化的・社会的意味での老衰」と「死因としての老衰」とを分けて、前者は否定的価値判断を含むが、後者には「十分に生きた末、自然に死を迎えるという肯定的な価値が含まれるとしている(17頁)。また、同書は「死因としての老衰」を「統計的」「医学的・臨床的」に細分化して、その意味するところを詳説し、さらに「老衰」という言葉が、「死因」として分類される「医療化」以前と以後とではどのように変化してきたかも検討している。この意味で言えば、親鸞の時代に「死因としての老衰」という概念などはなかった筈なので、この言葉について現代と親鸞の時代を直接比較することなとは出来ないであろう。その点で、この質疑に対する応答は少し的外れだったと反省するとともに、今後は従来あまり定義もせずに使用されてきた「老衰」という言葉と概念について、もっと深く探究すべきだという思いを新たにさせられた。その意味において、この質問を出して下さった参加者に感謝申し上げたい.

名古屋市中川区 真宗大谷派・正雲寺の公開講座より


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