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雑記帳2022-4-15 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2022-4-15
◆昨年から琳派にはじまって、広重、菱川師宣ら浮世絵の画家たちを学んできましたが、残るは喜多川歌麿になりました。歌麿はちょうど今、この『知の木々舎』に、斎藤陽一さんが『西洋美術研究者が語る日本美術は面白い!』に連載中です。

美人画。それも、胸から上をクロ-ズアップした構図の大首絵で有名な歌麿は、実は生年も出身地も不明です。
江戸中期の明和7年(1770)、17才で狩野派に学び、5年後、本格的に画工の仲間入りをします。曲折を経て、喜多川歌麿を名乗ったのは天明4年(1784)31才のときでした。
天明6年(1786)、初の狂歌絵本を発表したのを皮切りに、稀代のプロデューサー蔦屋重三郎とタッグを組んで、豪華な体裁の「画本虫撰」など多くの狂歌絵本を手がけました。滑稽を盛り込んだ短歌を挿絵入りでまとめた狂歌絵本は、自費出版の場合、豪華なつくりにできるので、卯頭路も力をいれたようです。極彩色の、精密で写実的な描写は高く評価されました。美人画とは全く趣の異なる植物や虫の絵に、歌麿の優れたデッサン力を見ることができます。
その後、天明8年から寛政5年(1793)にかけて、美人画大首絵を次々に発表して人気を博するも、寛政・享保の相次ぐ改革で浮世絵に規制がはいります。
幕府をはばかって春画を描いたり、画題を教訓的にしたりしたものの、ついに捕縛され手鎖50日の処分を受けて、解放されたのち、文化3年(1807)に死去しました。54才でした。

歌麿の大首絵は、役者似顔絵に使われていた構図です。それまでの美人画は呉服屋の広告媒体となることが多く、全身像が基本でしたから、人々っはその斬新さに夢中になりました。。

また、余白部分は一色にして人物に意識を集中させたり、雲母(きら)摺りで仕上がりを豪華にしたり、輪郭線を用いずに色の実で形を表現する無線摺りや髪の毛1本1本の生え込みまで表現する毛摺りや、色を使わず版木に強く押し当てて紙に凹凸をつくるきめ出しなどの摺りの技術を駆使する工夫がこらされています。歌麿の美人画は、彫師、摺師の技術とい一体になった浮世絵そのものでした。

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「婦女人相学十体 ポッピンを吹く女」
背景をはぶき、余白を一色で摺る地つぶしで、人物に意識を集中させている。
雲母摺りを用いて、パール効果を狙い、豪華な仕上がり。

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「虫籠」
髪の毛1本1本、生え際まで表現する毛摺りの技術で表情が自然に見え、美人に見える。

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「当世三美人」のモデルは左から煎餅やの娘お久、売れっ子芸者豊雛、茶屋の娘おきた

歌麿はまた、「青楼の絵師」とも呼ばれました。
青楼は遊郭のことです。描いた作品の3割を占めるほど、多くの遊女を描きました。
歌麿の遊女たちは皆、澄んだ目を見開き口をわずかにひらいて、艶治な表情をしています。
そして、売れっ子の芸者や茶屋の看板娘など、実在のモデルがいたことから、客はモデルに会いに茶屋や茶店に通う、相乗効果もあったのです。

「蔵の町」栃木は、歌麿ゆかりの地です。
栃木は江戸時代に皆川氏の居城のあった土地です。日光東照宮への奉幣使が通る例幣使街道(れいへいしかいどう)の宿場町として、また、江戸へ通じる巴波川(うずまがわ)の舟運の要所として栄え、とちぎ商人は大隆盛をほこりました。
江戸と交流のあった栃木は文化の面でも影響を受け、狂歌文かが花ひらきました。喜多川歌麿は、当時流行の狂歌を通じて栃木の豪商と親交があったのです。

歌麿は生涯に30点の肉筆画を描いていますが、そのうち3点は栃木の豪商、善野家の依頼を受けて製作したものでした。「雪月花」と呼ばれるシリーズは、深川、品川、吉原という江戸の遊所に取材した、何れも箪笥2棹分の大きさのある大作です。うち、「深川の雪」は2012年に日本にもどってきてきましたが、「品川の月」、「吉原の花」は海外に渡ったままだということです。
その他、近年、市内の民家・ゆかりの旧家から肉筆画「女達磨図」「鍾馗図」「三福神の相撲図」が見つかり、とちぎ蔵の町美術館に所蔵されています。

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蔵の街美術館にある「女達磨図」

蔵に残された所蔵品を公開している「あだち好古館」では、歌麿の『山姥と金太郎』が展示されています。「あだち好古館」は、江戸時代末期より呉服類を手広く扱う卸問屋に生まれた初代足立幸七が集めた浮世絵や書簡、彫刻、古美術品など、蔵に眠っていた古民具も含めて展示公開しています。展示室は7つ、一番古い約160年前のをはじめ、全室100年以上の土蔵倉庫でした。古い蔵の中に、無造作に壁いっぱいに飾られた広重の「東海道五十三次」(なじみのある保永版)や狩野常信の「王親子虎狩りの図」など、、公的な美術館のように撮影禁止など言わないおおらかさに、江戸時代の豪商の名残をみるようでした。

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あだち好古館 左に「日光例幣使町」の字が見える
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広重の「東海道五十三次」(保永版)が一堂に

例幣使街道沿いにある「とちぎ歌麿館」は、街道に遺る最古の建物です。弘化2年(1845)築。歌麿の狂歌絵本や復刻版浮世絵を展示しています。

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とちぎ歌麿館
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復刻版の「吉原の花」
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箪笥の前に歌麿の肉筆画復刻版がおかれているが、実際の1枚の大きさは箪笥2棹分もある愛作だった。
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狂歌絵本の1枚

この日、訪ねたもう1つの美術館は、那賀川町立馬頭広重美術館です。
栃木県の北部にある町立の小さな美術館です。街に寄贈された青木コレクションの公開と、地域文化活動の活性化を目的として平成12年にオープン、浮世絵を中心に企画展も開催されます。

小さな町に美術館を持つとは何たる贅沢かと思いきや、町は、実はその昔、金がとれたというのです。奈良時代、聖武天皇が東大寺大仏を造営するにあたり、日本中から金をさがしたところ、一番に産出の報告があったのが下野国のこの地でした。戦国時代には武茂(むも)郷を納めていた佐竹氏も、領内の金山開発を積極的に行ったということです。現在でも、当時の金山の跡がのこっているそうです。佐竹氏はのちに秋田に転封となり、つかえていた武茂の城主も同行したため、武茂城は廃城となり、武茂の名を知る人もいなくなりました。

竹の茂る裏山を背景に、この美術館を設計したのは建築家の隈研吾氏です。展示品はご多聞に漏れず撮影することはできませんでしたが、町はむしろこの建物を自慢したい様子で、積極的にインスタに挙げてほしいということでした。建材はこの地に産する八溝杉(やみぞすぎ)、特徴のある杉の木材は各所に使われていて、町の誇る美術館になっているようでした。
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隈研吾氏の設計による那賀川町立馬頭広重美術館
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ルーパーの造り出す影も見ものだとか。

青木コレクションは、さくら市を郷里とする肥料商、青木藤作が大正から昭和初期にかけて収集したコレクションで、広重の浮世絵と共に肉筆画も多数おさめられています。ちょうど、企画展として『河鍋暁斎(かわなべきょうさい)』展がひらかれていました。

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「餓鬼 河鍋暁斎」のポスター

自らを「画鬼」と称した河鍋暁斎は、広重や歌麿よりちょっと遅れて幕末から明治に活躍した画家として知られています。幼いころから画才を発揮して、歌川国広に師事、狩野派にも学んで、日本古来の画流を広くおさめて、浮世絵にとどまらず、多彩なジャンルの作品を残しました。
水墨技術の粋を尽くした「鵜図」や、迫力に満ちた「鍾馗図」には圧倒されます。かと思えば隣には、頬杖をついて休息するユーモラスな鍾馗の図もありました。諧謔に満ちた動物や妖怪たちは「鳥獣戯画」の世界そのままでした。

私は暁斎をずっと「ぎょうさい」と読んできましたが、本当は「きょうさい」が正しいらしい。43歳のとき、ウイーン万博・内国勧業博覧会に出品して、西洋の画家や収集家からも注目されるようになりました。暁斎を頼って弟子入りしたのが有名なジョサイヤ・コンドルです。コンドルはご存知。明治政府のお抱え建築家、辰野金吾らの弟子を育てる一方で、鹿鳴館やニコライ堂、数々の要人の邸宅など時代を代表する建築をいくつも残していますが、彼が暁斎の弟子だったというのも面白いではありませんか。
晩年には狩野派を託され、59才で亡くなる時にはコンドルが看取ったということです。


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