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論語 №140 [心の小径]

四四一  子、伯魚(はくぎょ)に謂(い)いてのたまわく、なんじ周南・召南を為(まな)ぴたりや。人にして周南・召南を為ばざれば、猶正しく牆(かき)に面して立つがごときか。

       法学者  穂積重遠

 周南・召南は『詩経』の初めにある各十篇の詩で、王公、大夫の夫婦生活を中心とする修身斉家の道を歌ってある。

 孔子様がお子さんの伯魚におっしゃるよう、「お前は周南・召南の詩を勉強したか。周南・召南は治国平天下での出発点たる終身斉家の道を歌った詩だから、人たる者周南・召南を学ばなくては塀に鼻突き合せて立ったようなもので、一歩も進めず一物も見得ないであろうぞ。」(参照 - 三〇九・四三〇・四四〇)

四四二 子のたまわく、礼云い礼と云う、玉帛(ぎょくはく)を云わんや。楽と云い楽と云う、鐘鼓(しょうこ)を云わんや。
                                    
 孔子様がおっしゃるよう、「礼・礼というが、それは玉や絹の礼式用度をいうのであろうや。楽・楽というが、それは鐘や太鼓の楽器をいうのであろうや。心の敬が形にあらわれたのが礼であるから、心の敬を失ったら、どんな上等の玉帛を用いても礼にはならぬ。心の和が音にあらわれるのが楽であるから、心の和を失ったらどんな妙音の鐘鼓を用いても楽にはならぬ。」(参照- 四三)

四四三 子のたまわく、色厲(はげ)しくして内荏(うちやわらか)なるは、これを小人に譬(たと)うればそれ猶(なお)穿ユ(せんゆ)の盗(とう)のごときか。

 「穿」は壁をくりぬく、「ユ」は塀を乗り越える、合せてコソコソどろばうのこと。

 孔子様がおっしゃるよう、「うわべばかりえらそうにかまえていて内心卑怯未練の人物は、これを細民(さいみん)にたとえてみると、平気な顔をしながら内心ビクビクもののコソコソどろほうのようなものじゃ。」

『新訳論語』 講談社学術文庫



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